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日本人はこれで大丈夫か!  あなたの心は汚染されまくっとるぞ

 
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 今の日本には『 心が汚れ 』ている人間が蔓延しています。自己中心的な輩が多い。このままでは日本が腐ってしまいそうです。

 ではどうすれば良いのでしょうか。『 除 染 』するしかありません。


  これからあなたに問いかけますので、自身の『 心の汚れ 』に気付けば謙虚に反省をお願いします。さもなくば、さらに脳みそが腐敗し続けます。私もやりますので。


 では行きます。『 八つの心の汚れ 』 仏教・儒教・道教のどれかだったと思います。


 「おしい」とは、こころのうごき身の動きを惜しみ、世のため、人のため、道のためにすべき相応の務めを欠き、嫌な事は人にさせ自分は楽をしたいという心の汚れ。

ほしい」とは、心も尽くさず、身も動かさずして不相応のものを欲しがり、あるが上にも欲しがる心の汚れ。

にくい」とは、自分のためを思って言ってくれる人に、かえって気を悪くして反感を持ち、あるいは自分の気に入らなかったり、しゃくにさわると人を毛嫌いし陰口を言って、そしり笑うことは心の汚れ。

可愛い」とは、我が身さえ良ければ、人はどうでもよいという心。我が子を甘やかして好き嫌いを言わし、仕込むべき事を仕込まず、「間違ったこと」も意見せず、気ままにさせる心。また我が身わが子が可愛ければ、人のことも思いやり、人の子も可愛がらねばなりません。

うらみ」とは、顔をつぶされたと人を恨み、望みをさまたげられたと人を恨み、誰がどう言ったと人を恨み、根に持ち、自分に知恵、力の足りないことや、徳のないのを棚に上げ、人を恨むのは心の汚れ。

 「腹立ち」とは、自分の言い分だけを主張し、相手の言い分に耳をかそうとしないから、腹が立つのです。これからは、腹を立てず、天の道理をたてることです。

よく」とは、何が何でも取りたいという心。暴利をむさぼるのは強欲です。また、色
情におぼれるのも色欲、心の汚れ。

ごうまん」とは、思いあがってうぬぼれ、いばり、富や地位を笠に着て、人を見下し踏みつけにするような心。目上に媚(こ)び、弱いものをいじめ、または、頭の良いのを鼻にかけ、人をあなどり、知ったかぶりをし、人の欠点ばかりを探す。これも心の汚れ。



 どうでしたか。先程述べたように思い当たる節があれば謙虚に反省してください。さもなくば、さらに脳みそが腐敗し続けます。

 『 心が汚れ 』人は日本国中、一杯います。このまま放置しておけば日本はそのうち自爆してしまいます。中国や朝鮮半島の被食者になってしまいます。



出戻り娘が年老いた母親を捨てて家を出た。30年の恩に泥を塗ったトンデモ娘のお話


 これは私の嫁の妹のお話です。その娘はお嬢さん育ちでした。
親は離婚した娘を不憫に思い今日まですき放題、実家に住まわせてやりました。


 30年前、 出戻り娘は、女の子と一緒に帰って来ました。気が付けば長い月日が経ち出戻り娘はもう57才の大おばさん。これまでの生活費は殆どと言ってよい位、親に出して貰い娘も大学まで行かしてもらいました。

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 本 題

この話は、私の嫁の義妹の話です。義妹は57才です。 義母は85才になり認知が少し入っています。ある日、義妹は母親と喧嘩して出て行ってしまったのです。

 私の嫁と妹は二人兄弟なので、嫁がいずれ親を見る覚悟はしましていました。ところが妹が結婚3年ほどで離婚して帰ってきたのです。そして実家で何十年も住むようになりました。

 両親も娘が不憫と思い、気の済むまで置いてやることにしました。父親はかつては平均的なサラリーマンで、すでに退職し年金暮らしです。食べるには不自由ありませんでした。しかし今から8年ほど前、父親は亡くなりました。その時みんなで話をした結果、妹が家を看るという事になりました。

  私の嫁は、実家の財産は欲しいとは思っていないらしく、妹が看てくれるのなら何も欲しくないと言っておりました。実家は資産家でもなく昔の小作農の出のようです。

  因みに私の出は、安サラリーマンの親父の家で育ち、財産なしの貧乏人の三男坊であります。嫁と結婚する時は嫁側も身の程を考えてか養子の話は出して来ませんでした。私も養子に行こうとはこれっぽっちも思っていませんでした。

 財産的欲望もありませんでしたし、持ったら持ったで維持に面倒ですから。私は身軽な方が好きです。しかし、いつか嫁の親の面倒を看なければいけない時が来るかもしれないとずーっと気にはして来ましたが、案の定来てしまいました。トホホ・・。他人の親でも人として知らん顔は出来ないですからね。


妹の性根

離婚後、パート程度の仕事は続けていましたが、所詮、自活できるほどの収入はありません。これと言って資格とか特技も無かったので高収入の職にはつけませんでした。やはり離婚後の自立というのは難しかったと思います。親の傍で生活出来る事がどれだけ幸せだったか。

 性格について言えば、派手好き、目立ちたがり、自分の非は認めたがらない。無心なところが見える。

 どうも姉とは似ていない。褒める訳じゃないけれど私の嫁は、地味で引っ込み思案、自分に非があれば素直に認める。堅いところもあり、倹約家。古風(冠婚葬祭の事をよく知っている)と言ったところ。


母親の性根

  出戻り娘と似ている所が多いです。固有の点で言えば・・「私はそんな事,言った覚えはない。」「 私はそんな事、聞いたことない。」とか。どうも自己を正当化してしまうところが強いです。出戻り娘と似ています。認知症になる前ですけどね。

 母親の人生で、一大事件を起こした事があるんです。母親の姉が昔、商売をしていましてブティックのような店を経営していました。私の嫁との結婚が決まった頃でした。店の借金が大きくなって、ついに倒産してしまったのです。その時、あの人(母親)は夫に黙って夫の金をその姉に貸したんです。夫は怒り心頭でした。娘の縁談が決まった時でもあり破談にならないか心配だ。と言っていた事をその後、聞きました。

 結局,母親の姉からは金を返して貰えず、縁切り状態がずーっと続いています。そんな訳で母親というのは、ちょっと自己中で大事なポイントを軽視するところがあります。自分だけの判断で暴走するところがありますね。

 

まとめ 母見れば娘がわかる

そう言うことで、あの二人( 母親と出戻り娘 )は共通点がありますから喧嘩が絶えなかったのだろうと思います。父親が生きていた時は父親の眼がありましたから、控えめだったのでしょう。
 
 また、私から見る限り、妹はずっと甘やかされていたため、自立心が芽生えず人間として成長できなかったのだろう。苦労知らずでここまで来てしまった。だから親への恩が自覚できず、感謝の気持ちも湧かなかった。だから家を出る事が出来たのでしょう。

 親への恩、感謝の気持ちがあれば年老いた母ひとり置いて出ることは出来ない筈です。当然、母親も人間だから完全ではありません。しかし、ここまで支えてくれた恩と感謝があればお互いが我慢して一緒に生活できたと思います。

 厳しい言葉になりますが、親も親、妹への躾けが全くなっていないかったと思います。離婚という失敗をいつまでも引きずっていたように見えました。だから甘やかし続けたのだろうと思います。

 自慢ではありませんが、私自身の子供二人にはあすこまで甘やかした事はありません。

 妹は家を出る際に、母親に何と言ったと思いますか? 「母ちゃんが出て行けって言ったからこんな事になったんよ。」

 いやいや、あのお母さんはそんな事は言っていません。我が子は可愛いものです。「好きなようにすればいい。」と言ったそうです。

 自分の事をさて置いて、すぐ人のせいにするのは如何なものでしょう・・・か

因みに、嫁は妹と仲が悪いです。母親は嫌いです。

  




私は時々、夕焼け小焼けになる、なんてちょっとセンチだな

 私は、綺麗な夕焼け小焼けを見ると古里を思い出す。タイムスリップして幼い頃の想い出にしばらく浸ってしまいます。たまにほっとする瞬間です。
 でも、センチメンタルになりやすい私はそれではいけないと、自分に言い聞かせてしまうのです。古里を振り返ることは弱気になった表れでだからです。生きる弱さを露呈しているのです。田舎では喰えないから都会へ出て来たのにそれに挫けては敗北者と同じです。そんな時は残りの人生,生きて生きて生き抜いてやると自分に言い聞かせています。
 たまに古里を思い出すことは決して悪いことではないですよね。懐かしくまたほろ苦く、親のことも思い出すのは大事なことだと思います。
 私は20才で古里を出て、今は都会で生活しています。あれからもう45年経ってしまいました。父は数年前亡くなりました。母は認知症がひどくなっています。実家は長男が継いでくれているので安心です。

 古里ってのは、実際より美化して思い出しているように思えませんか。実際、嫌なこともいろいろあったはずです。友達と喧嘩をしたことや虐められたこと。貧乏だったので惨めな思いをしたこと。
 でも、それで良いのかもしれません。いやそれで良いのだと思います。それらをまとめて古里と言うのかもしれません。玉手箱にような、人生の宝物と言っても良いでしょう。




 綺麗な夕焼け小焼けを見て、哀愁と懐かしさに浸れることは,日頃の疲れを癒してくれるのと同時に人生の復習をさせられてるみたいです。故郷を出てからの人生には入ろんなことがありましたが、これからも頑張って生きて行こうと思っています。


 前を向て明るく楽しく、良い思い出をつくるために生きて行こうと思います。


 私にはモットーがあるんです。辛い苦しいことに出会った時は『 なんだ坂、こんな坂 』で乗り越えて行くことです。











人生が楽しくなる幸せの法則


 私の人生に行き詰まった時に、支えとしているのがここに書いてある内容です。人それぞれ受け止め方は違いますが、興味のある方は参考にしてください。

 最初に、言葉の定義として苦とは「苦しむ」ことではなく「思うようにならない」という意味で話を進めます。

参考文献:『歩くだけで悩みを忘れる 歩行禅のすすめ』
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1 人生の「四苦八苦」は半分にできる。

最初の「四苦」とは、根本的に人間が避けることのできない「生・老・病・死」の4つの宿命を意味します。どうあがいても、誰も決して逃れることのできない必然的な定めです。

 もう一種類の「四苦」とは、人間が人間として生きていくうえで味わう、次の4つの苦しみ。

 ・欲しいものが手に入らない「求不得苦(ぐふとくく)」
 ・愛する者と別れなければならない「愛別離苦(あいべつりく)」
 ・嫌な人と出会ってしまう「怨憎会苦(おんぞうえく)」
 ・世の中はままならないものだという「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」

合わせて「八苦」と言う意味になるのです。

 後者の「四苦」は前者の「四苦」とは本質的に大きく異なります。

 「自分の心をうまくコントロールすることによって、解決できる苦しみ」だということ。これで人生の八苦のうち半分をなくすことができるのです。


2 心の針(メトロノームのような針)の動きが人生を左右する。

  心のなかに“針”があると思ってください。針は、あなたの心の動きにしたがって右へ左へと行ったり来たりしています。何かいいことがあったり、気持ちが満たされたりすると、心の針はプラスのほうに振れます。

 かたや、怒りや不満でイラッとしたり、ムッとしたりすると、その瞬間、心の針はマイナスのほうに振れます。


3 四苦八苦の克服法

  欲しいものが手に入らないときには、その存在を忘れてしまいましょう。「手元にないもの」や「手に入らないもの」について悶々と考えることをキッパリとやめ、かわりに「手元にあるもの」に焦点を当てて感謝しましょう。これは「知足」、つまり「足るを知る」という仏教の教えにも通じます。


 愛する人との別離は、受け止めがたく苦しいものですが、この世のすべては諸行無常であり、会者定離(えしゃじょうり/この世で出会った者とは、必ず別れるときがくる運命にあること)が人の世の定めです。出会えた意味を考え、それに感謝しましょう。
 

社会に出れば、嫌な人、苦手な人と出会ってしまうことも必然です。イラッ、ムッというネガティブな感情にとらわれることなく、「なぜ、自分はこの人のことが苦手なのか?」「どうすれば好きになれるのか?」「このご縁に向き合うことで、自分はどう成長できるのか?」このように、ポジティブな発想転換をはかりましょう。

そして、世の中はままならないものです。人生は自分の思いどおりにいかないことの連続ですが、そもそも、自分がコントロールできるのは自分だけ。自分以外の他者や外的状況をコントロールすることは不可能です。「思いどおりにしたい」という驕りを捨て、心の針をプラスへ向けながら、周囲と調和して謙虚に生きることで、人生の苦しみはぐっと軽減します。   
 

4 「運の良しあし」で人生を決めてしまってはいけない。

 人生の「運の良し悪し」は、実体のないあいまいなもので、神通力に頼る他力本願的なものでもありません。ある意味、各人の“諦めの思い込み”のような所があります。

  運とは、「運ぶ」という漢字を書きます。これは、幸運や不運が、ある日突然に立ち現れるものではなく、脈々と続く流れによって運ばれるものであるということを表しています。

 つまり、いまの自分の心が、明日の自分が運ばれる方向を決めるということです。よい方向、悪い方向、自分の未来がどちらへ運ばれるかは、いまの自分の心次第なのです。


5 嫌な事があっても、プラスに戻す努力が必要。

  ときには、理不尽な不幸や悲劇に見舞われることもあるかもしれません。しかし、そこからどう立ち上がるか、どう希望を見いだしていくかは各人の心次第です。

 最初から「できない」と決めつけていては、変化や成長はありません。できなくても諦めずに、コントロールしようとする努力を“継続する”ことに意味があるのです。

 今日より明日、明日より明後日……と努力を続けていると、だんだんと、マイナスが定位置となっていた心の針が少しずつ真ん中のほうへ、そして真ん中からプラスのほうへと振れはじめます。


6 釈迦が説いた「人間の4つの生き方」

  釈迦はかつて、「人間には4種類の生き方がある」という話を説きました。

・光から光へと生きていく人間
・光から闇へと生きていく人間
・闇から闇へと生きていく人間
・闇から光へと生きていく人間

  光というのは、人間が理想とするべき生き方。つまり、明るい光を求め、心の針がつねにプラスの方向を目指している、前向きでポジティブな生き方です。

 闇というのは、怒り、恨み、憎しみ、悲しみの気持ちにとらわれ、心の針はマイナスが定位置となったネガティブな生き方。つまり、人間としての成長を妨げる生き方です。

 今日から“心の針”の存在を意識してみてください。そして、その針がつねにプラスに向かうように心がけてください。針がマイナスを向いたことに気づいたら、すぐに元に戻す努力をしてください。これが、人生の苦しみを半減させる極意です。


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  私が紹介したこの本は、
『歩くだけで悩みを忘れる 歩行禅のすすめ』
著者は1300年の間に2名しか満行していない千日回峰行を達成した人です。座禅とは違う歩行禅。歩いている時って一瞬【無】に成っている自分を感じる時ってありませんか?( 散歩や買い物、仕事に集中している時も同じですが )







観光立国となった日本の課題は、自虐史観からの目覚め

  日本が観光立国となった理由は、外国人にとって日本文化が、とても魅力的で衝撃的だからです。日本人はその文化にもっと自信を持って自虐史観から目覚めて欲しものです。

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1 外国人観光客の急激な増加で自国の良さを見直し始めた日本人

近年、日本は観光立国として目覚ましい成長を遂げて来た。日本文化に触れて見たいという外国人が殺到している日本。直近の観光庁データでは 外国人旅行者受入数は3000万人/年に達しようとしている。日本の人口の1/4に相当する数である。
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 私の住んでいる片田舎にも外国人が大勢来て頂いている。どうも人気の京都がでいっぱい。人、人、人で見物できる状態でないらしい。よって、観光客は日本の各地に流れ出しているようだ。本当に有難いことです。


 テレビ番組に関しても、日本に行ってみたいと思っている外国人を呼んで、日本の文化(着物、茶道、舞踊、書道,禅など)を実体験して貰おうとする番組や、海外の専門家が日本の専門家――たとえば盆栽、左官、大工、寿司、うどん、そば、漆、他いろんな分野の職人に弟子入りし日本の伝統技術を習得する番組などがよく流れている。

www.tv-tokyo.co.jp


www.tv-tokyo.co.jp


  こういう番組を見た日本人はどう思っただろうか。今まで何となく自信のなかった日本人が日本の良さに気付き始めたのではないだろうか。日本人のアイデンティティーが高揚してきたのだ。番組を見た全国の職人やそれに携わる関係者も発奮しただろう。



2 自虐史観から脱却できない時代が長かった

日本は敗戦からすぐさま復興のため経済一本で突き進んで来た。日本人の勤勉さと誠実さでGDP世界2位まで奇跡的に上り詰めた。しかしGHQによって始められた洗脳教育と公職追放、日本を悪玉に仕立て上げた極東国際軍事裁判で日本人の精神は自虐史観で荒廃してしまった。


  最近の日本人の事件や犯罪には目に余るものがある。上は政治家のハレンチ犯罪、不倫のシキャンダルや汚職。何と民度がここまで下がってしまったのかと思わせるくらい情けない。恥ずかしい。レベルの低い戦後生まれの政治家が製造されてしまった。


 下は、誰でも良いから殺してしまえ事件、幼児乳児の虐待による殺人事件。動物の方がまだ賢い。動物は本能で親が死んでも子を守る。もっと動物から学べと言いたい。

 戦前のお父さんお母さん、お爺さんお婆さんの時代はそうじゃなかった。


 本当に日本人の質が低下してしまった。原因は戦後教育だと断言できる。嘘の歴史教育、国歌斉唱の否定、国旗掲揚の拒否、道徳教育の希薄、日教組による反日教育。国を愛せなくて家族を守ることができるのか。



3 終戦から第一次オイルショックまでの間

  戦後、経済最優先で突っ走って来た政策が、地方の若者を都会へと集中させるようになり、田舎は農業が衰退し始めた。昭和50年頃(第一次オイルショックの頃)には日本文化である祭りや村の行事がほとんど無くなってしまった。


 ところが、その頃から日本が少しずつ変わり始めたのだった。都会へ出て行った人達の一部がユーターンし始めたのです。都会のぎすぎすした人間関係と無機質な社会に疲れた地方出身の人だけでなく、都会生まれの人まで地方へ流れ始めたのです。これをアイターンと言う。


 そのころからの日本人は物質文化を追い求めるだけで無く、精神文化の価値への認識と復活の必要性が分かり始めたのだった。私自身、戦後の経済成長と共に生きてきた者にとっては十分理解できるこです。日本の四季折々の祭りや行事の復活は、地域のつながりの復活でもあり、日本人の原点、日本文化の原点ではないだろうか。


4  洗脳された日本人は、自虐史観から目覚め始めた

終戦以来、日本人は仕事一筋で働いてきた人が殆どだろうと思う。ボーナスも右肩上がりが続いた。しかしある時、オイルショックが日本を直撃した。その頃から日本人は、精神文化の重要性に気付き始めたのだった。


 第一次オイルショックの頃( 昭和50年頃 )はまだ、自虐史観からの脱却からはほど遠い時期だったが、精神文化の復活は途切れることなく継続されて来た。1990年代からだろうか、南京大虐殺や従軍慰安婦のプロパガンダが、反日マスコミによって宣伝されだした。NHKまでもが反日に成り下がったのたっだ。視聴料を取りながらこの様だ。


 そのプロパガンダは日本人の自虐史観をさらに深めてしまった。しかし、南京大虐殺や従軍慰安婦は虚偽であることが後に証明されたが、中国や韓国は今だに反日プロパガンダを大きな顔してやっている。さらに韓国では日本の修学旅行生に土下座をさせて過去を誤らせたり、日本の元総理大臣までもが中国や韓国の記念館を訪問している。我が日本国は一体全体どうなっているんだろうか。


 しかし、2010年にはいってからは、日本人の自虐史観が少しずつ解消されていると聞く。保守派の人達もそう言っている人が多い。それは何故なのか。それはインターネットの普及である。インターネットの普及が急速に進んだ事によって、歴史の真実が表に出てくるようになったのだ。


 近現代史の新しい資料も次々発見されており、それがインターネットで公開されることで、若者たちを含めた戦後教育を受けた者たちは、学校で教えられた間違った歴史に気付く事になる。インターネットは人類史上大きな情報革命だ。


 これによって今まで自虐史観に捕らわれていた人達が、真実を知る事によって自虐史観から目覚め、日本人としての誇りとアイデンティティーを取り戻しつつあるのだ。こうして目覚めた人からまだ目覚めていない人達へ、歴史の真実をシェアし続けてくれたら、日本人は元の日本人に戻る事ができるはずだ。










【 見当識障害 】認知症の母がデイサービスの日を間違えた


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はじめに

母と言っても女房の母の事である。だから義母である。義母は現在85歳。嫁の実家は我が家から車で40分位の距離にあって、山々が背後にあり近所で犬猫の子が生まれてもすぐ広まるような片田舎にある。いまだに旧日本社会の余韻が残っている土地だ。

 義母は二年ほど前に脳の検査を受けたところ認知症の一つアルツハイマーと診断された。それまでにも変な行動、言動はあったが最近特に目立つようになって来た。更に足の膝の痛みも増しいう事が効かなくなり杖は手放せない。

 嫁の実家は、両親と娘二人の4人家族だった。遥か昔に、両親は娘を二人とも嫁がした。義母の夫は7年前に既に他界してしまっており、現在は義母一人で生活している。私の嫁は会社勤めをしており、そう簡単に仕事を抜けられない。定年までまだ年数があるので何とか母親一人で頑張ってほしいと言っている。

 嫁は長女であるため親を看なければならないのは世の常識である。民法にもきちんと書かれているので拒否はできない。こういう言い方をすると変に思われるかもしれないが、女房は母親を嫌っている。人間的にもあまり尊敬していない。自己中なところがあるらしい。

 足も悪いし頭も弱って来たのだから施設へ入ってくれるのが一番いいんだけれど、私も仕事があるんだからと愚痴をこぼすのです。私は嫁と結婚した時からこう言う日が来るだろうと予測していただけに、精神的には動揺はしていない。

 デイサービスの日は火曜日のみのプランである。毎日通う事は可能であるが本人がデイサービスをあまり好きでは無いらしく、今は周一回にしている。症状が重くなって来たら毎日通う予定にしており、最後はショートステイの連続で最後まで看てもらう。と女房は言っている。前置きが長くなってしまったので本題に入ります。


 ある日、朝寝して目が覚めるとデイサービスの日になっていた。

義母は、朝ご飯を食べると眠くなる。人はお腹が起きると誰でもそうなりがちだ。デイサービスの前日の月曜日も同様であった。義母は朝寝に小一時間位、浸っていた。そしてふと目が覚めた義母は慌てだした。次の日になったと勘違いし火曜日のデイサービスの日だと断定してしまったのだ。

 デイサービスの送迎者はもう既に行ってしまったと思い込み、タクシーで追っかける事にした。その前に、慌てて服を着替なければならない。タクシーも呼ばなくてはいけない。頭の中で妖怪がグルグルと回っていた。何とか出掛ける準備は出来た。後はタクシーを待つだけだった。

 

タクシーに乗ったはいいが、施設の名前が出てこない

しばらくするとタクシーが来た。義母はタクシーの運ちゃんに手を引かれ、杖を突きながら「よっこらしょっ!」と,やっとのことで乗ることが出来た。さあ出発だ。しばらく走ったところで運ちゃんが、「お婆ちゃん、どちらまで?」っと効いた。

 すると義母は、「え~と、いつもの所。」運ちゃんが「いつもの所って?」義母「いつもの所よ、いつもの所。」。義母は、デイサービスの車に乗っていた時の道を頭で辿るのだがそれはおぼろ気で、ハッキリ思い出せない。運ちゃんは「じゃあ、何て言うデイサービス?」

 義母は、デイサービスの名前も思い出せない。義母「あすこ左へ曲がって次、右よ・・・」 運ちゃん「デイサービスような施設は見当たらんよ~。」そこらへんをクルクル回るだけで結局デイサービスは見つからなかった。

 運ちゃんもこれでは商売にならなと思い引き返すことした。結局、義母はデイサービスの名前を思い出せなかったのだった。


帰宅した義母は、デイサービスへ電話した。「今日、お休みにします。」

その時点でも義母は、デイサービスの日に間違いないと思っていたのでしょうが、施設のお姉さんに「○○さん、今日は違いますよ。デイサービスはあした火曜日ですよ。」っと言われてやっと納得したようだった。

 

年月日や曜日、時間、季節を間違える事が多くなるのは【 見当識障害 】

脳が健全な人であればカレンダーや新聞やTVで日時の確認が出来るが、認知症になると確認行為そのものが出来なくなるようだ。

見当識障害
見当識障害は、今日が何月何日であるか、いま何時であるか、自分がいる場所はどこなのか、誰と話しているかなどがわからなくなる、すなわち自分が置かれている環境・状況を認識する能力が障害された状態をいう。
今日の日付などは、誰でも間違える場合があるが、何月であるという事がわからなくなる場合は、認識出来ていない可能性があり、症状が進むと、朝昼晩の区別や季節がわからないという状態にもなる。
さらに場所が認識しにくくなり、通いなれた場所や道であってもわからなくなり、迷子になってしまう。
              引用元:認知症フォーラムドットコム

 私の実母のことも過去に書いています。
oobinbo.hatenablog.com



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