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センター試験の「樺太 帰属問題」設問に危惧

サンフランシスコ平和条約に、ソ連は参加していなかった

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 日本政府が「帰属未定」と主張する南樺太について、13日に実施された大学入試センター試験日本史Bで「他国を植民地にしたり領有したりした」とする記述に関連付けた出題があり、旧住民や研究者から「古くからロシア領と読み取れ不正確」との疑義が出ていることが24日、分かった。センターは取材に「(日本は1905年の)日露講和条約南樺太を領有した」と回答したが、日露国境は江戸時代から変更が繰り返されており、条約締結時を切り取ったセンターの出題は議論を呼びそうだ。


 この問題は、世界遺産に関する会話文から日本の近代化を読み解く内容。「近代国家となった日本が、軍事的にアジア諸地域へ侵攻し、他国を植民地にしたり領有したりしたことも忘れてはいけない」の一部に関連するとして(1)1906年の日露国境画定標石(2)関東都督府-の写真2点と白地図上の位置の組み合わせを選ばせた。


 (1)と(2)は日露講和条約の翌年、それぞれ樺太と旅順に設置された。同条約で、ロシアは旅順を含む遼東半島南部(関東州)の清からの租借権や、北緯50度線以南の南樺太などを日本に譲渡した。



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 センターの大塚雄作試験・研究統括官は「設問は近代日本の大陸政策についての理解を広く問うた。特にここでは日露講和条約の帰結として生じた境界の変更を問うている。南樺太を領有し、関東州を租借地として獲得したことは、小中高校で学習する」と説明した。

 これに対し、「知られざる本土決戦 南樺太終戦史」の著者、藤村建雄氏は「当時の感覚は『取り返す』。文脈から同条約時だけを切り取って『他国を領有』としており、あいまいで不完全な問題だ」と指摘する。



 樺太では条約による国境変更が繰り返され、講和条約では日露合意の上で南樺太が日本に移った。江戸時代には松前藩や幕府が施政下に置き、明治政府も行政機関を設けていたが、問題文はこうした歴史に言及していない。

参考:1875年樺太千島交換条約について
 日本としてはロシア人と混在している樺太よりは、ロシアが南下できないようにする事の方が大事であると判断したのです。

 岩田温(あつし)・大和大専任講師(政治学)は「大陸政策を広く問う内容になっていない。問題文は日露講和条約の年を指しておらず、古くからのロシア領と刷り込まれかねない。教育基本法の『わが国と郷土を愛する』という観点から適切ではない」と話している。


3
 樺太(サハリン) 北海道・宗谷岬沖約40キロの島で、北海道の面積に近い広さ。日露間で国境変更が繰り返され、現在はロシアが実効支配している。江戸初期の「正保御国絵図」に記載され、江戸後期の探検家、間宮林蔵が島であることを確認。ドイツ出身の医師、シーボルトによって世界に紹介された。日露戦争後の南樺太では最盛期に約40万人が居住した。先の大戦終結直前、当時のソ連が日ソ中立条約を無視して参戦し南樺太に侵攻。サンフランシスコ平和条約で日本は南樺太を放棄したが、ソ連は条約に参加しておらず、日本は南樺太を「帰属未定」と主張している。


真岡市(ホルムスク)を行進するソ連軍兵

引用:産経ニュース 2018.1.25




 なぜソ連は、これほどまでして火事場泥棒的な行動ばかりしたのでしょうか? 第二次大戦終了直後のサンフランシスコ平和条約にも参加せずにです。戦争は終わっているのに満州への南下も同様です。引き上げ日本人がどれだけ悲惨な目にあったか・・・。ソ連は、国家としてのプライドがなかったのでしょうか。みっともない話です。

どこかに書いてありました。

ソ連が1904年の日露戦争であんな小さな国、日本に負けたことが天地がひっくり返るほどプライドを傷つけられ、恥辱を味わされたのだと・・・
(フランス新聞の風刺絵)
巨人・ロシアに挑戦する日本。見守る欧米の誰もがロシアの勝利を信じていた。



























もう放っておくしかないっぺ!・・・韓国は


政治に興味のない人も韓国には
もう呆れかえっています。

本日の某新聞に慰安婦問題「日韓合意」についての現状を分かり易く解説されていましたので要約してご紹介します。

記事タイトル
放っておくしかない韓国 筋の通らぬ慰安婦合意めぐる新方針に韓国外交当局も「?」

文大統領

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 韓国政府が9日、慰安婦問題をめぐる日韓合意について、日本側に再交渉は求めない一方で、日本政府が拠出した10億円と同額を韓国政府として拠出するとの対応方針を表明した。さて、これを在京各紙の社説はどう取り上げるかと注目していたところ、産経、読売、朝日各紙が早速、10日付朝刊でそれぞれ次のように書いていた。

 「いわれのない要求に拒否を貫くのは当然だ。(中略)問題を蒸し返す新方針などありえない」(産経)

 「自ら果たすべき約束は棚に上げ、日本側にさらなる譲歩を求める。韓国の文在寅政権の態度は、外交常識に外れ、非礼である」(読売)

 「韓国政府として今後どうするのか明確な考え方が見えない。理解に苦しむ表明である」(朝日)

 あの朝日ですら、やんわりと韓国政府を批判し首をかしげていた。それだけ韓国のやり方は、異質で意味不明だということである。それどころか、韓国側の外交当局も、文大統領や康京和外相が何をやりたいのか把握できていないようだ。




2
 「韓国が10億円を拠出するというのは、ただ10億円を追加するということなのか、それとも合意の破棄を意味するのか韓国外務省に問い合わせたが、『分からない』との返事だった」

 複数の政府高官はこう証言する。合意に反対する国内世論に迎合して突っ走る大統領府を、外交実務者らは呆然として眺めているという状況だったのか。

 そしてこれは、文政権が今まで合意を批判する際に用いた論法とも矛盾する。

 「合意は朴槿恵大統領が勝手に決めて韓国外務省は関与していないので、正当なプロセスを経ていない」


韓国外務省で慰安婦問題の新たな方針を発表する康京和外相

 康氏は、昨年12月に来日して河野太郎外相と会談したときにはこう主張していた。ならば、韓国が今回表明した外交方針も、外務省が関与していないので正当ではないことになろう。

 そもそも日本政府にすれば、合意成立時点でこの件は「韓国の国内問題」(政府高官)である。今さら文氏が、騒ごうがどうしようが「ホント何言っているんだって感じだ」(外務省幹部)と突き放している。

 「韓国は放っておくということだ。まあ別に、こんな表明をしても、国際社会から笑われるだけだから」

 安倍晋三首相も周囲にこう語る。韓国は2月の平昌冬季五輪への首相の出席を要請しているが、約束を守ろうとしない自分たちの不実な態度こそが、それを実現不能とし、自らの首を絞めたことに気づかない。外務省幹部も嘆息する。




3
「韓国には何度も日本は怒っていると言ったが、なかなかそれが伝わらない」

 ただ、韓国側が自らの勘違いを自覚しない要因の一つは、韓国の筋の通らない要求にすぐ屈し、下手に出たがる日本側の融和派の姿勢にもある。

前述の朝日社説は、こうも記していた。
 「日本側も『1ミリたりとも合意を動かす考えはない』(菅義偉官房長官
官房長官

と硬直姿勢をとるのは建設的ではない」と。やっぱり朝日らしい。



 日本側が、自らゴールポストを動かしてどうするのか。韓国にすれば「ほら、日本の有力メディア(朝日)もこう言っている」と援軍を得た気持ちだろう。これでは日本の怒りを相手が理解しないのも無理はない。

 いったん結んだ国際約束に関し、片一方がぶつぶつ不服を言っているからといって、ほいほいそれに応じて見直していたらどうなるか。日本もまた、国際社会から約束を重視しない一貫性のない国とみられるのがオチである。やはり韓国は放っておくしかない。



韓国の常識は世界の非常識
昔、どっかで聞いたことがありますが。









創氏改名は「強制ではない」・・・韓国の歴史


道=行政区画の意味



 創氏改名、これは朝鮮伝統の金、朴、李などの「姓」(儒教文化的男系一族の象徴)は戸籍に残したまま、日本風の山田、田中といった家族的な「氏」を新たに創設する制度でした。

朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、女性は結婚後もその姓には加われない。

古代→近代、一族→家族化を図り「内鮮一体」の同化も進めましょう…というのが目的だったのです。

 本貫と呼ばれる出身地と併せて「姓」を一族の誇りにしてきた名家には、いらぬ“おせっかい”だったかもしれないが、日本人と同等になれる、

差別がなくなる…と歓迎した朝鮮人も多かったのは事実です。一方、日本には朝鮮人の犯罪抑止を理由に反対する意見もありました。

 重要なのは強制でなかったことです。日本風の氏を創設したのは約8割。期間中に届け出なければ、金や朴など従来の「姓」をそのまま「氏」として使うことができました。

陸軍中将になった洪思翊や世界的なダンサー崔承喜も、前述の検事、閔も日本風創氏をしていません。

もとより「改名」は任意(申請制)だったのです。

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朝鮮での近代的司法制度の誕生

 朝鮮で近代的司法制度を整えたのは日本でした。高等法院(京城=現・韓国ソウル)-覆審法院(京城平壌大邱)-地方法院の三審制、それぞれに対応する検事局が設けられました。

 起訴や捜査、法務行政を握る検事が強大な権力を持っていたのは日本統治下の朝鮮でも変わりはありません。

 検事の中で朝鮮人として出世頭のポジションにあったのが、大和田元一(げんいち)(朝鮮名・李炳●=1905~92年)である。

九州帝国大学を出て昭和9年の高等試験司法科(現在の司法試験に相当)に合格。

30代で朝鮮人としては異例の平壌覆審法院検事局検事(現在の高検検事に相当、ランクは高等官四等)に出世したのです。
大和田元一氏(家族提供)
 19年1月の司法部職員録を見れば、京城覆審法院検事局の朝鮮人検事として大和田より上位(高等官三等)に閔丙晟の名前がある。

ただ、明治23年生まれの閔はこのとき50代。京城専修学校出身の“たたき上げ”であり、「キャリア組」の大和田が朝鮮人検事のリーダー格だったと言って差し支えないでしょう。
大和田の名が記載された昭和19年の司法部職員録
 大和田の前半生は日本の朝鮮統治と重なっている。出身は、朝鮮半島南東部の慶尚北道・金泉の名家(両班(ヤンバン))、父親は日韓併合前の大韓帝国時代、郡守(首長)を務めていた。

生後5年で日韓併合(明治43年)となり、朝鮮の教育環境は日本によって急ピッチで整備が進みました。具体的なデータを挙げてみます。


開かれた高等教育 
当時、朝鮮人初等教育は、寺子屋にたとえられる書堂(ソダン)が主でした。

日韓併合直後の明治44年の統計によれば、朝鮮人が通う普通学校(小学校)が173校(児童数2万121人)に対し書堂は1万6540校(同14万1604人)。


それが昭和8年には普通学校2100校(同56万1920人)▽書堂8630校(同14万2668人)と児童数で逆転しています。

 法律や医学の高等教育機関である専門学校は明治44年に5校(学生数409人)だったが、昭和8年には15校(同3785人)へと急増。

1校もなかった大学は京城帝大が創設(大正13年予科)されました。

 大和田は、地元の普通学校→京城の高等普通学校(中学)→官立の京城法学専門学校と進み、京城帝大はまだ開設されていなかったため(学部は大正15年設置)、

朝鮮から最も近い帝国大学である九州帝大法文学部法律学科へ進学したのです。

 高等試験司法科に合格した大和田は、検事の道を選び、光州地方法院検事局・長興支部検事(昭和14年)→新義州地方法院同(15年)→平壌覆審法院同(18年)と検事として順調に出世の階段を上ります。

朝鮮人の司法職員数も、明治44年・364人→昭和8年・1232人へと増加しました。

 朝鮮人に高等教育の機会が開かれ、法を司(つかさど)る検事や判事(裁判官)のポストに就くことができたことは注目すべきことです。

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親日派として糾弾された大和田元一

 戦後の韓国では、大和田の輝かしい経歴もマイナスとなってしまいました。

 日本統治時代の“協力者”をリストアップし、韓国で2009年に出版された『親日人名辞典』の大和田の項では、「創氏改名」(昭和15年実施)の記述に大きなスペースを割き、

大和田が当時の新聞や雑誌に発表した見解を紹介した上で、同制度を積極的に支持したと書かれています。

 それがなぜ悪いのでしょう? 先にも書きましたが朝鮮人の「姓」は数が少なく混乱の原因になる上、

女性は結婚後もその姓には加われないという朝鮮人の人権を保障するために考えられた案なのに残念なことです。強制でもなかったのにですよ。

 確かに《栄光的な大日本帝国兵站(へいたん)基地としての2300万の(朝鮮)半島民衆》などと刺激的な記述はあるものの、古い物は保存し、より高い段階で生かすという意味を含ませ、

それに代わって創氏制度が新たに制定されると法律家らしく大和田は明快に説明しており、どこが問題なのか分かりません。

こうした韓国の反日一辺倒の感情は我々日本人にとってはがゆい限りです。

 こうして大和田は、韓国誕生後の1948年11月、大田地方検察庁検事正に就任するも翌年には退職を余儀なくされてしまいました。まだ44歳でした。

 大和田のような優秀な法律家こそ、戦後の新国家(韓国)建設に必要な人材ではなかったか?

参考:産経ニュースより2018.1.2






緊急ニュース これはイカン!・・・電車で泣いた他人の赤ちゃんの首絞める 2018.1.18

 
22歳男逮捕「苦しくなくなると思って…」

2018.1.18 12:03
とうとうこんな日本人が出現するようになった。
日本はもう終わったのか?

 電車内で女児の首を絞めたとして、埼玉県警大宮署は暴行の疑いで、さいたま市西区契約社員、○○晃祐容疑者(22)を現行犯逮捕した。



 逮捕容疑は17日午後6時55分ごろ、大宮駅に停車中のJR川越線の電車内で、富士見市の女児(1)の首を絞めたとしている。



 同署によると、女児は当時電車内で泣いていたため、母親(25)が抱いてあやしていたところ、突然首を絞められた。



○○容疑者は女児と面識はなく、「赤ちゃんが苦しくなくなると思って首をしめた」などと供述しているという。



女児は病院に搬送されたが、命に別条はないという。



 現場に居合わせた同県警浦和署員が○○容疑者を同駅のホームに下ろし、「首を絞めた」と認めたため現行犯逮捕した。


産経ニュースより













マレーシアの独立・・・旧日本軍に対する評価




マレーシア


約450年間、マレーシアは植民地にされて来ました。


戦後、日本が負けて去って行ったあと、マレーシアは独立しました。


マレーシアの人達は日本の軍隊がやったことをどう思っているのでしょうか?

それを調査するには、その国の歴史教科書を見ればよく分かると言われます。よって、歴史教科書を探して見ました。



マレーシアの国定教科書には、日本軍は、マレーシア解放軍と書かれています。





















歴代政治家の言葉からも読み解いてみます。

マレーシア元首相 マハティー

「もし日本なかりせば、世界は全く違っていたでしょう。

富める北側(ヨーロッパ)はますます富み、

貧しい南側(東南アジア)はますます貧しくなっていたと

言っても過言ではない。

北側のヨーロッパは、英園に世界を支配しただろう。

マレーシアのような国は、ゴムを育てて、スズを掘り、

それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けたでしょう」





ガザリー・シャフェー元外相

「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本

はよくやったではないですか。

マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追

い払ったではありませんか。

その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なく

しては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジ

ア諸国の独立も考えられないんですよ。」 

(日本のある政治家が日本の過去を謝罪した後の言葉)

ラジャ・ダト・ノンチャク(マレーシア上院議員
「私達は、マレー半島を進撃していく日本軍に歓喜の声をあ
げました。
敗れて逃げていくイギリス軍を見た時に
今までに感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としない
で、将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民
族の国語を普及させ青少年の教育を行ってくれたのです」
ラジャ・ダト・ノンチャク氏 (マレーシア上院議員
*************************************
以上のように日本は感謝されています。
自信をもってマレーシア旅行へ行けそうです。




アフリカは汚い便所だ・・・言ってはいけないトランプ大統領


アフリカ諸国はきたない便所


トランプはついに言ってしまった


トランプは白人至上主義者で
人種差別主義者

すねた我がまま大統領かお前は

かつて、日本が戦争に突入したあの日を思い出す。ああもうこんな大統領は一刻も早く消えてほしい。

よくもまあ、こんな大統領が出現したもんだ。アメリカという国は病気としか思えない。アメリカという国は病気 」・・・確かこれはプーチンが最初に言ったせりふだった。






ハリウッド俳優のロバート・デ・ニーロが、女性をさげすむ発言などで話題を集めるドナルド・トランプ米大統領候補を痛烈に批判した動画がありますので紹介します。




動画の中で、デ・ニーロはトランプ氏のことを「役立たず」で「犬」で「嘘がうまい」と語っており、トランプ氏は「バカ」で「アメリカの恥」とまで言っています。私もそう思います。

中身を解説

彼は明らかにバカです。彼は役立たずで、犬で、豚で、詐欺師で、嘘がうまくて、自分が何を発言しているかもわからない間抜けで、なんの準備もできない、配慮のない人間です。

彼は税金も支払わずに、社会をずる賢く操作していると思います。彼はバカです。コリン・パウエルは次のように言いました。「トランプは国家への災害です」 彼はアメリカの恥です。私は、このバカで愚かなトランプをここまで引き上げてしまったこの国に、強い怒りを感じています。

彼は、どれだけ他人の顔を殴ってやりたいかについて語ります。私は彼の顔を殴りたいです。私たちはトランプを大統領にしたいと思うでしょうか?私はそう思いません。

私は、この国の方向性を気にかけています。ドナルド・トランプのような人間とともに、この国が間違った方向に進むかもしれないと、非常に心配しています。もし自分の未来が心配なら、投票してください。



*******************************************



と言った内容なんですが、本投票より以前に出した動画なんでしょう。


本当にアメリカ国民は分断されているんでしょうね。でも諸外国は、こんな大統領とお付き合いしなければならないのは非常に残念です。



早く弾劾されますように・・・・・・アーメン









韓国の「 親日罪 」・・・エ~かげんにしてくれ (@_@)!


変な国家



この特別法は、2005年 廬武鉉政権が制定したものです。
2009年不正疑惑で亡くなった


親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法 」
通称、反日

大統領直属の国家機関として親日反民族行為者財産調査委員会を設置し親日であった反民族行為者の財産を選定して国家に帰属することとしています。



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適用例としては、
12007年2月15日、親日反民族行為者財産調査委員会は親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法に基づいて、合計270万坪の土地を対日協力による不法利得であるとして、それらを相続した計41名から没収する手続きを開始すると発表した。

2) 2007年5月2日、親日反民族行為者財産調査委員会は日韓併合条約を締結した李完用の子孫9名から154筆、約25万4906平方メートル(36億ウォン相当、日本円で約4億8000万円)の土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下した。

 2)が興味深いですね。 日韓併合条約と言えば歴史に残る大条約、この時の李完用伊藤博文の推薦で、大韓帝国首相に就任しています。
李完用首相
李完用は政治家人生の中で何度も暴漢に襲われています。1909年、12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われ、全身をメッタ刺しにされ重傷を負いましたが、一命をとりとめました。彼は命がけで政治使命を果たしたのです。



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適用状況
・ 2009年2月までに77人の土地5537,460m2余り時価1350億ウォン(約98億円)相当を没収することが決定されています。

・ 2009年8月9日、親日反民族行為者財産調査委員会によれば、韓国政府に帰属決定がされた親日派の子孫の土地は2009年7月現在で774万4千余平方メートル(時価1571億ウォン)となっており、この中で法的な手続きが終わり、帰属が確定した土地は全体の9.5%(73万3千余平方メートル)、残りは訴訟中のようです。


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注 意
勘違いしないでください。
現在の親日行為ではありません。

この法律、名称のこともあり現在の親日行為を罰する法律と勘違いしている人もいますが、

実際は日露戦争から韓国独立(1904年~1945年)までの間に、朝鮮総督府に協力し蓄財した親日協力者の財産を没収する法律であって、現在の親日行為を罰する法律ではありません。


条文にも以下のように書かれています。

親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(第一条)
日本帝国主義の殖民統治に協力し、わが民族を弾圧した反民族行為者が、その当時、蓄財した財産を国家の所有とすることで、正義を具現し、民族精気を打ち立てることを目的とする」















日本はもっと自信と誇りを持とう・・・自虐史観はもうよそう

人種平等を世界に先駆けて訴えたのは
日本だった


1920年、第一次世界大戦の反省を活かし、世界平和の理念を強固にするために国際連盟が設立されました。それに先駆けて1919年フランスで行われたパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃」を盛り込んだ画期的な提案をしました。このような提案をしたのは世界初のことで、日本が誇るべき提案です。


ところが当時世界各地に植民地を持っていたイギリスが猛反対、オーストラリアや議長であるアメリカのウィルソン大統領も最終的には首を縦に振らず、日本の提案は却下されました。日本の人種差別撤廃条項案が却下されたことは、すぐに世界中に知れ渡り、東南アジア、エジプト、インドなどでは次々と独立運動が起こりました。アメリカでは黒人達による暴動が起こりました。


そもそも日本が世界の舞台で人種差別撤廃を訴えたのはなぜでしょう。当時脱亜入欧を合言葉にアメリカに移住する日本人が増えていましたが、アメリカ人はあまり快く思ってはいませんでした。その感情はやがて「日本人排斥運動」という形になり、カリフォルニアなどでは日本人は法律で土地所有を禁止されたりしました。


日露戦争第一次世界大戦戦勝国になった日本をしても人種の壁は崩すことのできないものだったのです。それがパリ講和会議の提案に繋がっていったのです。


そして、西欧特に米英とって、植民地支配というものが当たり前の価値観であって「人種平等などありえない」というのが当時の常識でした。

提案を行った牧野大使

そして第二次世界大戦始まる

大戦が始まった初頭、日本では東アジアの要人を招いて「大東亜会議」を開きました。

 昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。歴史的出来事です。アジアの自主独立を旗印とし、各国代表演説が行われ、共同宣言を満場一致で採択したのです。

左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘東條英機
ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース

この大東亜会議は外相の重光葵の提案によるものです。日本が自存自衛のために大東亜戦争を戦っても日本一国の思いと受け取られてしまいます。アジア各国が集まり、世界に宣言を出すことによりアジアの思いとして鮮明にしたわけです。


しかし、日本は負けてしまいました。アジア解放の目標は未達成で終わったのです。


終戦の昭和20年8月15日、天皇玉音放送の中で、東アジアの解放について無念さを述べておられます。

その個所を抜粋してみました。

原文では

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

現代語訳では

余は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、余の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、余の心より深く憂うるところである。

1945年(昭和20年)8月15日


このように、日本は終始、「人種的差別撤廃」「植民地解放」を貫いていたのです。

そして

第二次世界大戦後、国際連盟国際連合に変更され、1948年12月10日、第3回国際連合総会で「 世界人権宣言 」が採択されました。すべての人民とすべての国が達成すべき基本的人権についての宣言です。

「 虐殺や戦争が起こらないように、世界の平和を実現するため、世界各国が協力して人権を守る努力をしなければならない。 」というのが根底にあります。



そしてその後、植民地であったアジアやアフリカの地域では独立国家が次々、誕生していったのです。


このように、日本のやって来たことは間違いではなかった事がお分かりでしょう。


日本人よ! もっと自信と誇りを持ちましょう。自虐史観はもうよしましょう。









「南京大虐殺」のウソを分りやすく説明してくれた

それは「 しばやんの日々
というブログでした



 南京事件」いわゆる南京大虐殺」については以前からウソ臭いと思ってはいましたが、それを証明してくれる人がいないか探していたところ偶然 「しばやんの日々」というブログに出会ったのでした。


南京大虐殺の真実を暴く
詳しくはこちらをご覧ください。
https://goo.gl/Rc7q5w










私はコピペはあまり好きじゃありませんし、「しばやん」もコピペはご勘弁をといってますので・・・リンクを付けました。

しばやんは、よくここまで資料、画像を集められたものです。本当に関心しました。


 ネットの普及は、ブログや歴史の真実を知ろうとするネット団体などを通して戦前の日本軍の行動や政府の裏事情を明らかにしてくれています。噴いて湧くような真実の資料や映像がネットに流れ、歴史研究家たちの努力の成果も含め真実が明らかにされているのはすばらしい事です。


戦後、復員してきた兵隊さんは、多くを語らず家族に半世紀以上口を閉ざして来ましたが、ネットを通じて少しずつ真実を話してくれるようになりました。いつか生きている間に戦争の真実を伝えなければと考える元軍人さんが増えてきたのでしょう。




南京大虐殺のウソを利用したものがいる

れは、

① 国民党=蒋介石が、プロパガンダに利用した。
② GHQが、日本人に自虐史観を植え付けるために利用した。



この自虐史観は、催眠術を掛けられたように戦後75年解かれていないように思わざるを得ません。完全にマインドコントロールされてしまいました。まだマスコミや学校でこのウソが伝えられています。これは日本人の民族性が作用してるかもしれません。



大人しく生真面目で従順すぎる。

お人好しで、すぐ人を信じるところがある。



この特性は、

戦後の日本の指導者にも当てはまる。



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最後に「しばやん」のGHQと自虐史観に対する所見を付けておきます。しばやんの言葉をお借りしました。

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終戦後にGHQが日本人に自虐史観を植え付ける目的で利用するに至る。


南京陥落時に日本軍による大虐殺があったという作り話を多くの日本人に知らしめたのは、GHQが日本人を洗脳する目的で昭和20年12月9日からNHKに毎週放送させた『真相箱』であり、翌年の5月3日から審理が開始された「極東国際軍事裁判(東京裁判)」なのだが、多くの日本人にとっては「寝耳に水」であったという。


戦後67年を過ぎた今も、この年にGHQによって押し付けられた『南京大虐殺』があったという話が未だにマスコミや学校で伝えられ、多くの本に記述されていて、本当にあった話だと考えている人がまだまだ大多数を占めている。



このブログで何度も書いているように、わが国の近現代史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、戦勝国にとって都合の悪い史実が封印されて、史実と異なる記述がかなりあることを知るべきである。


これから学ぶべきなのは、戦後GHQが隠そうとした「戦勝国にとって都合の悪い史実」の方だろう。何も戦前の皇国史観に戻れというのではなく、過去の史実や史料を丹念に追っていけば、「本当は何があったのか」を知るヒントとなるものが、世界史の流れの中から見えてくるのだと思う。











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