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中国のインテリが日本を尊敬している点=中国メディア・・・それは日本人も自負して良いんじゃないか

 

 

 

 

 

中国では、基本的に反日感情がある

ものの、「明治維新」に関しては尊敬と

羨望の目で見ている。

 


 

 

 中国メディアの快資訊は2018-06-16、日本の明治維新が成功した理由に関する記事を掲載したので紹介します。


 

 

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 日本を大きく変えた明治維新。中国では、この「日本の成功」を称賛し、なぜこれが中国ではできなかったのかとたびたび議論される。

 

 

それにはいくつかの理由があったという。

 

 

 記事は、日本で明治維新が成功したのには3つの理由があると分析している。

 

 

その1つが「国民性」だ。「他人との和」を大切にする日本人は、集団意識が強く、認識や目的を共有しやすいため、西南戦争はあったものの、大きな分裂や内戦が起きることがなかったという。

 

 

 2つ目は当時の「国際情勢」も日本にとって有利に働いたと指摘。ペリー来日から10年足らずで米国では内戦がぼっ発し、ロシアもトルコと戦争中で日本とは1875年に樺太千島交換条約を締結している。

 

 


 


 

 

ヨーロッパではプロイセン=フランス戦争がぼっ発するなど、大国が日本の改革を妨害する状況でなかったことが大きかったと分析した。

 

 


 


 

 

 

 3つ目として記事は、全面的に近代文明を受け入れたことが成功の鍵だったと分析。あれだけ叫んでいた攘夷を、討幕と同時にあっさりと放棄し、欧米の制度を取り入れるために岩倉使節団をヨーロッパに派遣したと指摘した。

 

 










岩倉使節団

 

 

この岩倉使節団は、発足したばかりの明治政府のトップが軒並み参加して、長期間日本を留守にしたという異例の使節団で、当時の明治政府がいかに近代文明の導入に必死だったかがうかがえる。

 

 

 


 記事は最後に、日本はたった40年ほどで遅れた農業国から列強に並ぶ近代国家へと、全く違う国に生まれ変わったと感心しつつ称賛した。

 

 

 明治維新がなかったら、今の日本はなかったというのは本当のところだろう。

 

 

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   中国の歴史   




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台湾の日本統治時代、台湾のために尽くした八田與一さん・・・八田像の首を切断した犯人に実刑判決が下った

 





台湾の八田與一像首切断事件について

台湾人ニーハオ、ザニーさんのブログから引用


 


 

 

 


 




 


 

ニーハオ、ザニーさんは、このニュースを見た日本人が台湾という国を誤解してしまうのではないかと大変心配しています。


 










こいつが犯人




 


 

 

 










同犯の女

 

 

 

 

 


八田与一像を切断した元台北市議に


実刑確定・・・高裁が控訴棄却


台南市烏山頭ダムそばに設置されている日本人水利技師、八田与一の銅像の頭部を切断したとして、器物損壊罪に問われた元台北市議の男の控訴審判決で、台湾高等法院台南分院(台湾高裁台南支部)は7日、懲役5カ月とした1審・台南地裁判決を支持し、控訴を棄却しました。

 

 

台南地裁は今年1月、元台北市議の男に懲役5カ月、共犯の女に懲役4カ月の判決を言い渡しました。

 

 

(余談)1日当たり1000台湾元(約3700円)の罰金支払いによる懲役の代替も選択可能らしいです。

 

 



台南地裁の判決文によれば、2人は八田与一を尊敬すべき人物とする世論に不満を抱き、昨年4月15日未明に犯行に及んだ。男が糸のこぎりで銅像頭部を切断し、女は見張りや写真撮影、切断の手助けなどを担当した。 とあります。






銅像は切断後、レプリカ像を使って修復されましたが、切断された頭部はいまだに見つかっていません。

 

 

 

日本人である私は、この事件に関して、台湾は国民党派(外省人・・・大陸から逃げて来た人たち)と、台湾人(内省人)が対立している事を以前から知っていたのでまったく誤解はしていません。

 

 

国民党がやった白色テロ=228事件、記憶しておきましょう。

 

 

よくわからない方は、次を参考にしてください。

 

台湾の歴史・・・日本は台湾を植民地にしたのではなく、内地と同様に統治した事がよく分かると思います。)

 

八田與一・・・作業員やその家族には大変、配慮しました。共同住宅や娯楽場をつくり、お祭りもやったそうですよ。

 

日本統治時代の台湾・・・評価されている後藤新平

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【中国動画】地下鉄車内でお爺さんが・・・/ 無料ランチをめぐって女性同士が・・・








1)中国の老人、地下鉄で席を譲ってもらえず女性にビンタ




中国の湖北省武漢市の地下鉄で6月13日、年配男性が座席をめぐって座っていた女性にビンタをするトラブルが発生した。楚天都市報が伝えた。


目撃者の女性によると、年配男性は座っている中年女性に向かって席を譲るよう求めていた。


女性は「年寄り風を吹かさないで」と発し拒むと、年配男性は激しく罵り始め、しまいにはビンタをお見舞いした。


これには女性のみならず他の乗客からも批判の声が飛び交ったが、年配男性がひるむ様子はなく、他の乗客の仲裁もあって大きなトラブルには発展しなかったという。


報道に対して中国ネットではわずか3時間で1000件を超える書き込みが投稿され、年配男性の行為が行き過ぎたものだと批判することが大半を占めていた。


中には、年配男性を他の路線で目撃し、そこでも他の乗客ともめていたと証言する書き込みも見られた。



今回のトラブルに関して地下鉄の管理会社は、「駅構内での乗客の不適切な行為に対して、駅職員は強制的に干渉する権利はない。大きなトラブルの場合は警察に相談してほしい」と語っている。





2)中国の女性が無料のランチめぐって取っ組み合い、ネットも呆れ果てる






中国の広西チワン族自治区南寧市で6月11日、レストランが無料ランチを人数限定で提供するイベントを行ったのだが、人が殺到しけんかする人が現れるなど現場が騒然とした。



現場に居合わせた市民によると、当時レストランは先着38人に無料ランチを提供するイベントを開催していた。


映像ではチケットを奪い合う市民らの姿が映っている。無料ランチにつられ100人近い人が店に訪れ、その多くが年配者だった。


映像で歩道に転がりながらもみ合っているのもこの店に訪れた年配女性らで、割り込みが原因で激しくもみ合ったという。


無料ランチのためにけんかする年配女性の姿にネットでは呆れる声が多く寄せられている。



日本女性は、「大和なでしこ」と言われますが、中国の女性は何と言われるのでしょうか?


考えさせられます・・・





参 考
訪日外国人観光客は、 2017年は2,869万人でした。
国別では、中国が一位です。


       































ベトナムではホンダのバイクが超人気・・・コピ-がお得意のチャイナは涙目 (TдT)




ベトナムで日本のバイクが
中国のバイクに圧勝した理由


朝のラッシュ


ミニスカで股乗りの女性も


民族衣装のアオザイで二人乗り
危なっかそう


 中国の自動車情報サイト・易車は17日、「日本のバイクが席巻するベトナム市場、中国メーカーが対抗できないのはなぜか?」と題したコラムを掲載した。


コラムでは、中国メーカーの失敗の理由についてつづられている。以下はその概要。 


中国の自動車メーカーは世界市場への進出を目指しているが、世界で影響力を得ることには成功していない。


なぜうまく行かないのか?中国のバイクメーカーから教訓を学ぶことができる。 


十数年前、中国にまだ自動車がそれほど普及していなかった時代、中国のバイクは価格の安さで勝負していた。


ベトナムでは価格の安さから日本メーカーとシェア争いを展開し、低価格戦略に味を占めた中国メーカーの参入が相次いだ。 


その結果、コストを下げるために製品の品質が落ち、問題が続発した。日本のバイクに比べ安いものの、寿命が短く燃費が悪く問題が絶えなかったため、消費者は中国メーカーから離れ日本メーカーに回帰した。


こうしたこともあり、ベトナムでは中国のバイクが劣悪品の代名詞とまで見られるようになった。 


中国メーカーが日本メーカーに完敗したのには、品質を無視した低価格戦略を打ち出したほかにも理由がある。 


技術面ではエンジンの開発が遅れていること。


中国のバイクメーカーでは日本から輸入したものや日本メーカーを模倣したエンジンを使用することも珍しくないが、自国での開発が遅れているために日本メーカーに対抗する力が弱い。 


さらに、ブランドの知名度も双方で大きな差がある。ホンダといった日本のバイクメーカーは世界で知られており、東南アジアでは人気のブランド。


日本のバイクに比べるともともと技術や知名度の点で中国メーカーは劣勢にもかかわらず、劣悪な製品を販売したことで評判はさらに悪化したのだった。


これで、低価格だけに頼った方法では成功しない事が証明された。





過去記事
① ベトナムの民族衣装アオザイ・・・うっとりしちゃうぞ

② ベトナムって親日家が多いの?・・・調べてみた

③ ベトナム訪問・両陛下2017/03/02・・・おばあちゃん達との面会の理由

④ ベトナムの歴史・・・残留日本兵の功績

⑤ ベトナム・・・高速鉄道計画










台湾フルーツ【ライチ】美味しいよ。・・・日本へ2トン輸出した結果


日本でPR用に、販売したところ、
用意した2トンが3日で売り切れたという。

台湾の【ライチ





こんな風に実っています。



ライチの味は?
冷蔵庫で冷やして食べると、この世の食べ物とは思えないほど、みずみずしく、ほのかな甘みがあり、程よい酸味がフルーティなおいしさをかき立てます。



この果物は楊貴妃がこよなく愛した果物としても知られています。


ライチの値段は?
台湾でライチを食べられるのは、6月末から7月中旬くらいまでで、2週間から3週間くらいの短期間だけです。


台中の道端でたたき売りされているライチの価格は、6月頃は5斤(3kg)で100元で7月に入ると6斤(3.6kg)で100元で販売されています。    
1元=約17円

もちろん一人では食べきれないので冷蔵庫に入れて1週間くらいで食べることになります。







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これに自信を得た台湾は、今後、日本にドンドン輸出して行くという。そこで問題になるのは何分、果実なものだけに 輸送中に痛みが出るのである。


この問題を解決するため、台湾はずいぶん前から、産官学で研究を行ってきました。


その成果が出たという情報が入ったのでお知らせします。



台中産ライチ、産官学連携で日本輸出拡大へ 外観上の課題克服/台湾

台湾中央通訊社 2018/06/11


台中市政府はライチの輸出時に生じる外観上の課題を克服する新技術を活用し、地元の大学や企業との連携で同市産ライチの日本への輸出拡大を狙う。


11日に市内で行われた記者会見には蔡英文総統が出席し、「日本の消費者は美しいライチを見て、きっと家に持ち帰ってくれることでしょう」と期待を寄せた。 

産官学連携で日本への輸出拡大を狙う台中産ライチ


ライチを日本に輸出するには、害虫の卵や幼虫などを殺滅するために蒸熱処理を施す必要がある。だが、処理過程によって皮が変色し、外観の美しさが損なわれていた。 

同市は昨年1月、中興大、直動機器メーカーのハイウィン(上銀科技)とライチの鮮度保持技術に関して連携する協定書に署名。


ハイウィン傘下の団体が310万台湾元(約1140万円)を出資し、中興大が開発した鮮度保持技術を主要産地の太平区農会(農協)に技術移転することなどを支援した。


鮮度保持技術を利用すれば、蒸熱処理をしても外観の色が保たれるようになる。 


ハイウィンは同市の青果組合から同市産ライチ1500箱を購入し、日本の顧客に配布するなどして日本へのPRを後押しするという。 


太平区農会(農協)は先日、日本で黒葉ライチのPRを行った。1箱(約10個入り)約125元(約460円)で販売したところ、用意した2トンが3日で売り切れたという。 


市によれば、同市のライチ栽培面積は約1940ヘクタール。年間生産量は1万7729トンに上る。例年6~7月に市場に出回るという。 


















【 台湾 】の名前で「東京オリンピック」に出るぞ!



「台湾」名義で東京オリンピックに出るぞ!


 台湾は、終戦まで日本が50年間統治していた国だった。日清戦争清に勝利し下関条約の結果、国際法上でも認められていた土地であった。


しかし、第二次世界大戦の敗戦で台湾を放棄せざるを得なくなった。


同時期、支那大陸では中国共産党毛沢東蒋介石率いる国民党が大陸の主権を争っていたが、国民党が敗れ日本が去ると同時に台湾へ逃げて来てしまった。


それ以後、蒋介石率いる国民党は現在まで居座り続けて来た。それを中国共産党がしきりに「台湾は我が国だ!」と言う。しかしそれはおかしな話だ。


その前は日本の領土だったのに。


そこで今回持ち上がったのが、東京オリンピックに出場するあたっての国名問題である。



台湾名義での東京五輪参加支持を訴える日台の団体ら



台北 2018/06/10 中央社)によると、


チャイニーズタイペイ」ではなく「台湾」名義での東京オリンピック出場を実現させようと活動している日本と台湾の団体が10日、台北市内で合同記者会見を開催した。



台湾での運動の発起人、李登輝民主協会の張燦コウ理事長は、日本で署名運動を行っている団体に感謝を示し、台湾人こそがこの運動を支持するべきだと署名への協力を呼び掛けた。



李登輝元総統

この日は、日台合わせて約20の団体が会見に参加。日本からは2016年から日本での署名活動に取り組んでいる「2020東京五輪『台湾正名』推進協議会」の水島総・会長や永山英樹幹事長らが出席した。


水島 総




水島会長は、2011年の東日本大震災で支援を寄せてくれた台湾は「本当の友人」だとし、この活動は「友情の証」だと語った。


永山幹事長は、日本で署名運動を行った際には多くの人が協力してくれたと紹介。台湾の政府は世界には台湾を支持する国が多くあることを知るべきだと述べた。


台湾での署名筆頭者である元五輪代表の紀政氏は、自身が出場した1964年の東京五輪、1968年のメキシコシティ五輪では「台湾」の名称が使われたことに言及。


台湾はオリンピックで「唯一、自分たちの国名、国旗、国歌を使用するのが許されていない国」だと訴えた。


台湾では、「2020東京五輪台湾正名行動チーム」など複数の市民団体が「台湾」名義での五輪参加申請への賛否を問う公民投票(国民投票住民投票)の実施に向けて署名活動を行っている。


今年2月には約4500人分の賛同署名を中央選挙委員会に提出。現在は次段階に必要な約28万人分の署名獲得を目指している。




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1964年の東京オリンピック

1964年の東京オリンピックでは「TAIWAN 中華民国」で出場している。




2014年11月の台湾紙自由時報(電子版)。日本での「台湾2020東京」アクションは台湾メディア各社に好意的に受け取られた。



かつての日本、台湾を応援しよう!










マレーシア「日本に見習え」のマハティール新首相 ・・・「ちょっと安倍首相に合って来るね。」 2018/06





「ルックイースト=東方政策」の
マハティール首相がやって来る。





 マレーシアは大東亜戦争終結まで約450年間、白人たちの植民地でした。それは過酷な忍耐の連続でした。ところが大東亜戦争で日本が最後の植民国イギリスを追放したのです。


その後の混乱が少しありましたが、1957年独立しました。独立は、アジア開放を大儀として日本軍がイギリスと戦って勝利した事が切っ掛けだったとし、今も日本を高く評価してくれています。





その一人が後の首相、マハティールなのです。その人が今回の大統領選挙で勝利し再登場することになり、日本訪問の運びとなったのです。








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マレーシアのマハティール首相が12日に国会で講演
11日から来日、安倍首相と会談も予定
産経ニュース

 衆院議院運営委員会古屋圭司委員長(日本・マレーシア友好議員連盟会長)は7日、マレーシアのマハティール首相が12日に国会内で講演すると記者団に明らかにした。


11~12日の日程で来日し、安倍晋三首相と会談する予定。5月に政権復帰してから初めての訪日となる。


講演のテーマは「両国関係のあるべき姿とこれからのアジア太平洋」で、衆参両院国会議員を対象に行う。


 マハティール氏は1981~2003年の首相在任中、日本や韓国を手本とする「ルックイースト=東方政策」を推進し、親日家として知られる。
     


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マハティールが6月中旬訪日
Star online of Malaysia

マハティール首相は6月中旬にに開催されるフォーラムで、1980年代に彼が提唱した“東方政策”を再び持ち出す計画です。


6月11日と12日の2日間に渡って日本で開かれる、”第24回アジアの将来に付いての国際会議”で演説することになっています。


メディアに対して「日経新聞が主催する年次会議のため、訪日するが、この訪問でマレーシアと日本の関係が深まることを願っている。


アジアの将来に付いて語るため、毎年このフォーラムには参加しています。」とマハティールは語りました。


今回の訪日はマハティールが第7代の首相就任以来、初めての国外出張となります。







過去記事
マレーシアの旅・・・「 住みたい国 」第1位


マレーシアの首都:クアラ・ルンプール




マレーシア・・・独立までの歴史





















台湾の元日本兵への償い ⑥・・・あまりにも安すぎる。

⑤の続き

河野さんが台湾の元日本兵やその家族に取材した時の続きです。(補償確定以前)


台湾人日本兵


以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年(昭和60年)及び1995年(平成7年)に行った取材が元になっている。敗戦から40年。彼らは何を考えどんな生活をしているのか。日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録しました。



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張 藍好と張 甲二
彰化県員林鎮
遺族 張甲四は第15回特設勤労団に参加し、
ニューギニア・ビアク島で戦死

昭和18年(1943年) 張甲四(中央、日章旗を持つ)
出征時の写真。母は向かって右隣、長男・甲二は後列右端

――母・張藍好の話――
14歳で結婚して、いま82歳です。6人の男の子の母になりました。次男の甲四は18歳で志願し、お国のためにいさんで出かけていきました。


最期の地はニューギニアのビアク島〔戦闘は1944年5月27日~8月20日〕です。はっきり死んだ日付はわかりません。隣部落の青年が帰ってきて消息を伝えたとき、はじめて死んだと知りました。遺骨もなく、ただ靖国神社の名簿に入っているそうです。


帰国を楽しみに待っていました。(駅が近いので)汽車の音が聞こえると我が子が帰ったのではないかと思うのですが、いくら待っても帰ってこない。いい子だったのに……毎日毎夜悲しんでいます。

昭和60年(1985年) 上の写真と同じ場所で 張藍好と長男・甲二


――兄・甲二の話――
昭和15年(1940年)に国民学校の教員になりました。教員は戦争には行かずに済んだ。日本語教育を受けたわたしたちは、日本語しか話せない。


そのあと大陸から来るものは何でも北京語。再教育を受けて中国の学校の教員免許をもらいましたが、教育勅語から三民主義に変わったのだから、一大変化です。頭の切り替えが大変でした。


尽忠報国天皇陛下に忠を尽くさねばならないと教えていたのに、日本帝国の思想・政策と民主主義は180度違う。昨日までは日本人、今日からは中国人。子どもたちには「中国に還った」と教えました。


日本に対する敵対行為というより、どうしたら中国に功労できるか、孔子の教育思想、修身のようなことを重点的に教えた。


わたしは、日本が台湾に授けた教育は成功したと思っています。秩序、礼儀作法、経済方面、何を見てもいいところが多い。日本の教育といまの(台湾の)教育を比べれば、雲泥の差ですよ。


中年以上の人は東条英機を皆嫌うけれど、天皇を嫌う人はいない。まだ尊敬されてます。戦争責任は海軍や陸軍にあって、天皇にはない。


日本人で嫌われていたのは、横暴でわがままですぐ殴る当時の警察。終戦後、横暴な警察だけはつるし上げをくったが、他の日本人にはそんなことはなかった。台湾人の保護を受けて、朝鮮や中国の在留邦人に比べれば幸運でした。いまでも教え子が来たら歓迎します、交流ありますよ。(日本語発)



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鄧 来添
大正4年(1915年)生 屏東県内埔郷 農業
陸軍東部86部隊 上海 捕虜監視員 昭和19年(1944年)上海陸軍射撃場の建設現場での機銃掃射により左下腿部切断

「右下の賞状をもらったのはわたしだけです」

足が不自由なので、昭和22年(1947年)に畑で転んで右腕を石にぶつけて傷口が化膿して、切断しました。医者は余りの貧乏をみかねて、お金をとりませんでした。


わたしは畑の草取りだけ、妻は日雇いに出ていました。みんなが同情して田畑の水源管理人にしてくれました。


それでも月300元(1,800円)です。田畑もすべて売ってしまいました。近所の人や親戚からの援助でようやく食べてこられました。


戦前、わたしは昼に農事実行組合の書記、夜は国語講習所の講師をしていました。俸給は65円もらってました。日本時代はよかったです。


差別もなかった、日本人の言うことをよく聞く人には、ですけれど。士官は部下をよくかわいがってくれました。


日本の病院を退院する時に千円もらったけれど、ひと月で食べてしまいました。米一斗が200円の時代ですから。敗戦だったからしょうがない。日本は悪くない、怨みはありません。


日本の経済がよくなったら慰問金を送って下さい。わたしは戦傷でまだよかったが、戦死に補償がないのは気の毒です。


日本は原子爆弾に負けました。もし、原子爆弾さえ落とされなかったら必ず勝っていました。(日本語談)

「朝食のあとは1日中この椅子に座っています」



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山口達男/バッサオ・ワタン(泰雅族)

張 金章

大正14年(1925年)生 南投県仁愛郷 農業

昭和18年(1943年)第1回特別海軍志願兵 軍人 駆逐艦

天皇陛下は国家の王様、尊敬している」

戦前、教師と警丁〔警官の助手〕を拝名していたが、兵隊の方が好きだったし、尊敬されるから天皇陛下のために志願しました。


6ヵ月の訓練のあと、南方のフィリピンやコレヒドールに行き、長く艦隊にいた。飛行機が宣伝ビラをまいたので終戦とわかりました。


敗戦後、バターン半島で3ヵ月収容されてから高雄に着いた。高雄からここまで帰る旅費も食料もないので、大陸の兵隊に着物や時計や靴を売ってようやく帰って来た。


家に着いたら、1ヵ月前に母が死んでいました。


父はわたしが5歳の時「霧社事件」〔*註〕で死んだので、わたしは兄夫婦に育てられました。その兄も第5回の高砂義勇兵としてニューギニアで行方不明。


帰国後1ヵ月して遺骨が届いたけれど、砂や石が入ってただけで本当の遺骨と違う。わたし、捨てたよ。


戦後も苦しいのには変わりない、自由にはなったけれど、生活の基礎がないからね。


日本人とは何年も一緒に暮らしました。総督府は良いけれど、山に入ってくる警官は悪かった。派出所を建てるために木を切らせて運ばせる。5人家族なら5本のヒノキを今日中に持って来いといわれる。


それから週1回宴会をするのだけれど、その食料を調達させられました。道路工事や運搬の義務が多かったので、自分のところの粟や芋を作る暇もなかった。


1日義務にでないと、殴られたうえに3日義務に出される。日本の教育や政治は良かったけれど、各集落の警官が悪かった。だから霧社事件が起こったんだ。


巡査は出征兵士の奥さんをやって、沢山あいのこ出来たよ。巡査がやらせろと言ったら怖くて断れないよ。


わたしは25年前からカトリックです。良い話があってとてもためになる。山の人、宗教のない昔は敵・味方に分かれて首切りなんかもしてたけど、いまはみな兄弟で、往来もできれば取引もできる。


日本時代は天照大神だったが、説教もなくただお参りするだけで意味も何もわからん。(日本語談)

「写真が傷んだので4年前に絵を描いてもらいました。かっこいいでしょう」

*註 霧社事件=1930年10月27日、霧社公学校(現・南投県仁愛郷)の式典に集まった日本人139名が山地先住民・泰雅族に殺された抗日蜂起事件。強制労役や日本人との婚姻問題など複数の要因が重なって決起に至ったもので、日本の警察と軍隊はおよそ2ヵ月かけてこれを鎮圧、644名の死者を出した。翌年の報復事件(第2霧社事件)を含めると約千名が犠牲となり、生き残った200余名は山から下ろされ川中島(現・清流)に強制移住させられた。


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長寅健一/張 長寅
大正15年生 雲林県大埤郷 無職
原告 海軍第8軍需部生産隊 軍属 ニューブリテンラバウル 空襲の機銃掃射により右前腕部切断 兄はニューギニアで戦死

「戦前、わたしの家はこの地方で一番大きな用品雑貨屋をやっていた。
水田も10町歩あり、国語家庭でもあった」

熱地農業技術員養成所の1回生だったが、ラバウルでオーストラリア軍の機銃掃射にやられて、右腕を失った。戦地では上官が、もし死んでも家族は国が面倒見るから安心しろと言ってたよ。 


こんな体になって、人生観が変わった。希望も全部なくなり、仕事をする気力も失って…… 終戦後、帰ってきたときにはまだ財産があったけれど、土地改革法で田んぼは小作人に払い下げられた。


もらった債権も6年で食いつぶし、次に店を売った。禁じられてる玉突きの店をやったりしたけど、ここ10年は売る物もなくなり、友人と姉の援助で暮らしている。 


出征前に約束していた女性は他の人と結婚してしまい、その後の結婚話は全部断った。いまは内縁の妻と娘と息子がいて、生活はとても苦労している。籍を入れない理由? ……前途がないからね。


天皇には何の感情もない。わたしにとっては死んでいるのも同じ。天皇のため、日本のために負傷してきたのに何の面倒も見てくれない。


もう日本語なんてしゃべりたくないくらいだ。補償してくれるんだったら、早くしてくれ。生きているうちにもらえなかったらしょうがない。誠意がなければブーハット(無法度)だね。(日本語発)



「ずっとこの腕を隠して生きてきた」




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王 朝坤
明治36年(1901年)生 南投県埔里鎮 農業
昭和12年(1937年)に軍夫として上海上陸作戦に参加
 軍属
長男・王献臣は特設勤労団員として昭和19年(1944年)ニューギニア・ビアク島で戦死

「わたしは明日かあさっていなくなる(死ぬ)が、
天皇陛下に忠誠を尽くしました」

役場の半強制で召集されて小行李(しょうこうり/弾薬運び)として日支事変の上海上陸作戦に参加した。3、4回手柄を立てて勲八等瑞宝章をもらった。


2年戦争に参加して、負傷し九州の小倉病院に4ヵ月入院し、後送された。勲章は二二八事件〔*註〕のころに捨てた、書類も捨てたよ。


戦争はいかん。人が死んで、戦傷して、こんなことはいかん。かわいそうだ。


天皇陛下は50年間台湾を守った、人民を保護した。本当にありがたい。日本精神よかった、戦争も強い、日本人の印象はいまでもよい。


いまの中華民国もよい。蒋介石は日本の罪を免じた。ありがたいことです。


息子の献臣は昭和18年(1943年)に戦争に行き、いまでも帰ってこない。戦死の通知はもらってない。日本帝国には、子どもを連れて行った責任がある。


わたしは年を取っても恩給がない。補償は、紙に書いているだけで実行してくれない。日本の失敗は、報いてくれないことだ。補償をすると損をするというのは間違いだ。

「桃園の中学を出て、仕事は百姓、田んぼを作ってた」
(村長)や農業実行組合の組長を務めたこともある王朝坤さん。
もうけた五男三女のうち長男だけが帰らない。

*註 二二八事件(二・二八事件)=1947年2月27日夕刻に起きた台北における闇煙草の取り締まりをきっかけに、翌28日に発生し台湾全土に広がった民衆の抵抗事件。戦後台湾に入ってきた国民党政府への不満が爆発した偶発的な事件で、国民党軍の報復的鎮圧により2万人を越える本省人知識人や芸術家、学生らが命を落とした。犠牲者の人数はいまだ特定されていない。事件をきっかけに発令された戒厳令は1987年まで継続した





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楊 周球
明治39年1906年)生 彰化県渓湖鎮 内職
遺族 長男・楊碧年は第19回特設勤労団の軍属としてニューギニア・マノクワリで戦死 ★日本名なし

「生きているうちにもう一度あの子の顔が見たい」

わたしの家は製糖会社の貧しい小作で、10人きょうだいの長子だった息子は日本語ができなかったのですが、部落書記に勧誘されて入隊しました。


飼っていた牛の面倒をよくみて、兄弟げんかはしないで仲良く畑仕事をするように――そう、涙ながらに言い残して。わたしは涙は見せないようにしました。


入隊の3日後には、何の訓練も受けぬまま高雄から出港したそうです。19歳でした。 

3ヵ月後に代筆の手紙が来たけれど、住所ははっきり書いてない、海外だというだけでどこへ行ったのかもわからない。


その後も2、3回便りがありましたが、わたしも文字が読めないし、どうにもなりませんでした。


一緒に出征した隣村の人が戦後遺骨を持ってきてくれて、はじめて息子の戦死を知りました。髪の毛と爪と小指が入ってました。


それ以前に20数円が戦地から届いていて、大切に終戦後まで残しておいたのですが、皮肉なことにあの子の葬式代に消えてしまったのです。


おじいさん(夫)は体中病気です。わたしは左眼を失明して、右眼も顔の輪郭がわかる程度。いまは自炊しながら鶏の羽の選別の内職をしているけれど、1日やっても醤油1本買えるか買えないかのお金しかもらえません。


死んだ者は死んでしまった。40年も経ってしまっていまさら何を言ってもはじまらないけれど、息子も中村輝男さんのようにひょっこりジャングルから出て来はしないか、などと思ったりします。 


わたしは年寄りで話が下手で、何を言っていいのかわかりませんけど、日本人に良心というものがあるのなら、良心にのっとった行動をしてください。

――通訳者による補足――
この村一帯はかつて日本の製糖会社の土地でした。こういう寒村では珍しくないことですが、子だくさんで、子どもは誰も学校に行っていない。だから日本語も話せないし、字も読めない。楊周球さんは、日本に天皇がいるということも知りません。日本人は村人の無知につけ込んで、強そうな若者を力仕事のために連れて行った。命令されて行っただけで、愛国心とは無関係です。

息子さんの仕事は土方仕事、飛行場作りなどの敷設部隊です。軍隊の最下部の軍属、クーリー(苦力)だから訓練もいらなかったのでしょう。




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蔡 順庫
大正11年1921年)生 嘉義市 露天商
第23回勤労団 軍属 ハルマヘラ島 兵器廠 機銃掃射で右大腿部貫通創

「日本精神はバカ精神だ。バカ正直だ。
だからこんなひと月千元のあばら屋に住んでるよ」

馬場中隊長にはずいぶんいじめられた。負傷してるのに薪割りをさせられたよ、飯を食べるなら仕事をしろとね。軍刀で尻をなぐられたしビンタもくらった。


いま寒くなると傷跡の筋が引いてそれが頭にまできて、走り回る痛さだよ。終戦の時、かわいそうなもんだよ、空襲でもだいぶやられたよ。


戦争に行く前は、台湾銀行で給仕をしていた。帰ってきてまた雇ってもらえるかと思ったが、足を負傷しているのでもうだめだった。重い仕事ができないから、レンコン茶の露天商をしている。


「新高(にいたか)の山のふもとの民草も 茂りまさると聞くぞうれしき」――明治天皇御製、いいでしょ、この言葉。いまでも好きでよく覚えているよ。


昔の天皇陛下は臣民を愛しとるんですよ。日本を統治している尊い偉い人間だった。でも、いまは何も思わないよ、国が違うんだから。 


戦後『明治天皇』という映画が来たが、天皇陛下が登場したら皆一斉に起立した。外省人はおかしくてたまらなかったでしょう。


いじめられたことは、軍律だからしょうがない。こんなに苦労しているんだから日本はわたしの生活を助けてくれ、慰問してくれと言いたいが、誰に言っていいのかわからない。(日本語発)

太ももにある貫通銃創の傷跡。「この怪我じゃ子どもはできない
と思ったけど、結婚は30歳。でも毎年できて5人だよ。
金がないからまだ3人は結婚していない」




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湯川孝二/ユウスウグ(鄒族)
湯 保福
大正8年(1919年)生 嘉義県呉鳳郷 農業
第5回高砂義勇隊 軍属 ニューギニア、ワタン半島

高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入って一番良いことだった」

志願して、南海派遣《猛》第2689部隊に入り、工兵として道と橋を造りました。男と生まれた以上は兵隊に行かなければならないので、この部落では皆争って行ったですよ。


高砂兵180人中、帰ってきたのは4人だけ。それくらい戦地はひどかったですよ。戦死した人の髪の毛と爪を持って帰りました。 


せっかく遠いところに行ったのに、負けたのは哀しかったよ。戦死した戦友のことを考えたら涙がこぼれて、この歌を思い出すよ。


 ♪歓呼の声や旗の波 「あとは頼む」のあの声よ これが最期の戦地の便り……(皇国の母)


戦後、食べるものなかった。二二八事件のとき、嘉義県ひどかった、国民党とずいぶん戦争したよ。一生懸命仕事して、3、4年ではじめて楽になった。


日本人は差別もしたけど、いいこともしたよ。水田、孟宗竹、麻竹、油桐、内地桐、杉、山茶花、棕櫚、みんな日本人の指示で植えた。いまはこれで食べていけるよ。


天皇陛下ですか。んー、当時はどこへ行っても神様のように拝んでいた。いまの天皇陛下はどんなことをするのかわからない。いまは選挙で選ぶんですか?(日本語発)

政府に言いたいことは、「その時代(義勇兵時代)の俸給を
もらいたい。貯金通帳はもうなくしたけれど、番号は覚えてる」




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松下和子/ロビ・ロバオ(泰雅族)

昭和17年(1942年)生 春陽村
遺族 父の松下政治は第3回高砂義勇隊に参加しニューギニアで戦死 ★漢名不明

「母(写真左)の生活を見ていると苦しみがよくわかります」

父はわたしが2歳のとき戦死し、母は戦後ケガして帰ってきた兵隊と再婚しました。粟ご飯と芋で大きくなりました。学校へは靴がなくて裸足で行った、着物は固い麻でつくったもの。

本当の父のことは憶えてないけれど、一緒に撮った写真あります。

泰雅族の民族衣装をつけた松下和子さん





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吉川正義/ワタン・ノウミ(泰雅族)
何 義春

大正14年(1925年)生 南投県仁愛郷大同村

歩兵第47連隊第4中隊 軍人 インドネシア・チモール島

「いまでもやはりぼくたちは帝国軍人だと、そうしゃべってるよ。
周囲の人に『帝国軍人来たぞ』と言う」

昭和17年(1942年)、国のために仕事をしようという大きな気持ちで志願したよ。この部落からは一人だけで、(霧社からは)4名出征して3名が生き残った。


香港、ビルマニューギニア、ソロモン島を経由してジャワに着いたが、戦闘はなく、仕事は警備。でも爆撃は受けたので大勢死んだ。わたしらは負けるとは思ってない、一生懸命仕事やってたよ。


終戦のときチモール島から退却してビルマに行ったが、中隊長は「闘いはこれからだ」と行軍した。フィリピンに来て戦闘続けたね。最後は戸田侍従〔戸田康英 1911-77〕がフィリピンに来て玉音放送を流したので、それで信じた。


中隊長が「いたくシンキン〔宸襟〕を悩ましている天皇陛下に捧げ銃!」と号令をかけて終わり。死んだ兵隊かわいそうね。


貯金通帳も軍票も、中隊長に言われて全部燃やした。捕虜にはされなかったが、ジャワのスラバヤで5ヵ月雑用して台湾に帰った。


帰宅したら父親は生きていたけど、食べ物ない。ずっと芋と粟、そういう生活長かった。病気になると歩いて薬をもらいに行ったよ。


日本は厳しく教育したため、山の人も良くなった。首取りばかりやっていたのを、天皇の名前を使って治めてしまった、ありがたいよ。


山地の人は正直、教育された通り信じる。軍隊でも日本人と同じ飯、同じ教育、差別はなかったよ。


天皇への崇拝の気持ちは残っている。テレビ見てるから、もう神様とは思わないが。日本に行ったことあるけど、宮城礼拝をして帰ってきた。


(軍人になったのは)仕方がないもん。補償金もらって、ああ解放されたんだなと、そういうふうに思いたい。(台湾人元日本兵は)年取ってどんどん亡くなっているから、補償は速やかにした方がいい。(日本語談)

「日本は親の国、なのに(補償金を払わない
ことで)汚名を子々孫々残したくない」




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加藤直一/パキシャン・ナオ(布農族)
高 聰義
大正9年1920年)生 南投県仁愛郷大同村 元郷長・県会議員

台北帝大農林専門部を出て総督府殖産局農林課に勤務 昭和18年(1943年)に志願し海軍特別陸戦隊の軍属としてニューギニアに出征 ウエワク湾で実弟の乗った船が沈没するのを目撃 1946年復員

1981年10月に補償問題の運動を知り、翌年台湾で訴訟代表後援会を組織し会長となる 1984年9月、東京高裁での第9回公判に証人として出廷 *1999年4月逝去*

八・八提訴十周年市民集会で壇上に立つ(1987年8月8日、東京・主婦会館)

「日本人と同等の補償を、日本人の手で渡してください」――これが弁護団が主張する2原則です。補償が下りても、台湾政府の代理人が来て渡したのでは気持ちが違うでしょう。

中曽根康弘首相〔1918-〕、有馬元治議員〔台湾人元日本兵等の問題懇談会会長/ 1920-2006〕、山中貞則議員〔同懇談会会長/ 1921-2004〕には心から感謝しています。


台湾での後援会会員は5、6名逃げたけれど、来る者は拒まず、去る者は追わない。みんな逃げて一人になっても、仕事は続けます。


たくさん部下を殺した、死んだ人たちを犬死ににしたくない。戦争は間違いだし、あってはならないことだけど、でも間違いがあってよかった。なければ日本はこれほど繁栄していない。


ぼくはいまでも自分を日本人と思っている。日本人の中国人なんです。日本はわたしの親・わたしの国であり、わたしを日本人として育てた国だから。


台湾がこんなにうまくいって、発展したのは日本の教育のおかげ。台湾は昔の日本以上に愛国教育をやっているが、ぼくはあんまり……


バターン半島コレヒドール陥落でも高砂義勇隊は命を捨ててやりました。高砂義勇隊でなければ落ちなかった。


真珠湾攻撃で)「ニイタカヤマノボレ」と言ったけれど、結局、新高山〔現在の台湾の玉山。当時の日本国最高峰〕のふもとに住んでいる人たちの補償問題をしないことには、何のための「ニイタカヤマ」だったのか? 何ゆえに「ニイタカヤマ」を使ったのか? (日本語発)


「日本に4回行ったが全部自分の金、人に迷惑はかけてない」(1985年)




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南郷元孝
大正6年(1918年)生 台北市 日本語学校
海軍第3艦隊第5水雷戦隊 軍人 ★漢名は未公表

「戦争は負けると前々からわかっていた。どんな負け方をするか、
負け方の問題。ともあれ、残念だったことは間違いありません」
海軍中尉南郷元孝

国語家庭ではありませんでしたが、小学校から日本人と一緒に教育を受け、台北一中に入学。昭和17年(1942年)、広島文理科大学〔現広島大学〕2年のとき召集され海兵として3ヵ月の訓練ののち中尉に任官されました。


駆逐艦朝顔》《春風》《夕凪》、重巡妙高》、駆逐艦《五十鈴》、空母《飛龍》、戦艦《金剛》と渡り、駆逐艦《浜風》に乗っているときこれが轟沈し〔1945年4月7日13時頃。


戦艦大和が沈没した日本海軍最後の艦隊行動〕海に投げ出されて18時間漂流しました。


その間に、母親に戦死公報が送られたほどです。幸い別の駆逐艦雪風》に拾われて《初霜》に渡され、終戦佐世保の船の上で迎えました。みんな泣きましたよ。


四大節四方拝1/1・紀元節2/11・天長節4/29・明治節11/3〕には海軍で外地の者はどこにいても、午前10時15分に宮城礼拝をします。


10時には当直士官が一種軍装で集合をかけ、号令とともに戦闘配置につき、ラッパが鳴ると気を付けをして東の方角を向き敬礼する。


なにもない東の空をただじっと見ている。こんなことをしてたんですからね。戦友は、弾に当たって死ぬときも「天皇陛下万歳」と本当に叫んでいました。


いま、天皇は〔神ではなく〕人間だと思います。わたしは個人的に、天皇に戦争責任はないと思う。責任があるのは軍閥です。


俸給は海軍中尉が140円、大尉は180円が郵便局に振り込まれましたが、それが終戦で支払い停止になったものだから、台湾人が騒ぎ出した。


騒いだのは戦死者(遺族)と傷病兵で、我々帰還兵は騒がない。でも中村輝夫に政府がお金を払ったことからすれば、責任を取る気はあるはずだと思います。


戦後の苦労としては……精神的な悩みが深かったですね。自分のいままでやってきたことが正しかったのか。これはわたしだけではない皆のジレンマだと思います。


人を殺し、殺されて……現在の自分を発見するのに半年くらい時間がかかりましたよ。戦争に対しては「嫌い」という感情を持つというよりも、考えさせられますね。


戦後は教育畑に入りました。まず市役所の教育課長となり、その後は国立師範大学や陸軍の政治作戦学校日本語科、台湾大学法務省司法官研修所に勤めて台湾の立て直しに努力しました。


教師としては、日本教育のいいところを取り入れました。教師が献身的だとか、法令や校長の命令に服従する、中心思想(日本植民地時代でいえば天皇崇拝)のある教育です。


逆に見習わなかったのは学生を酷使すること。便所掃除や草刈りはやらせず、体罰も禁止です。(日本語発)

「短銃と軍刀は二二八事件のとき淡水河に捨てましたが、この
“恩賜の煙草”は記念にとってあります。まだ香りはありますよ」


河野さんの追 記 

 訪台以前は、台湾人はみんな日本時代を否定するものと想像していた。大陸(中国)や韓国の人がそうだったからだ。


ところが実際に来てみると、「戦前はよかった。それに比べていまの社会は……」と嘆く日本語世代の老人に出会う。天皇に批判的な人もめったにいない。


「日本精神」という言葉にも驚いた。優れたもの、尊敬すべきものが《日本》精神と呼ばれているのである。 


日本精神とは、国粋主義や特攻精神ではない。教育勅語で謳われている倫理、道徳、公の精神を言っている。






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