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世界は今や「たこ焼き」ブーム・・・ある日本人がタコで国を救ったモーリタニア






スーパーでは「モーリタニア産
と書かれたタコをよく見かけると思います。










 モーリタニアはアフリカにある国です。その昔モーリタニアは貧しい国でした。その国へ日本の政府関係機関に所属していた中村正明さんがやってきたのが切っ掛けでした。









中村正明さんは、海外に出向いて漁業のやり方を教える仕事でした。
その中村さんがモーリタニアに派遣されました。
モーリタニアで、中村さんが目をつけたのがタコでした。
実際、沖合では質のいいタコが獲れました。




日本人は、世界一、タコを好んで食する国民です。モーリタニアは全然食しませんが、これを日本に輸出することによって莫大な収入源になったのです。
これこそ、お互いWIN! WIN!の関係ってことですね。





漁師は今も中村さんに心から感謝しています。収入が増えて非常に喜んでいるのです。

今では代が変わって子や孫の時代ですが、その恩は伝えられているのです。中には子供が出来た時、中村さんの名前の一部を頂いて命名している人もいるとか・・・大変な人気です。


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モーリタニア産「壺たこ」プロジェクト

タコの日本への輸出には、現在、日本の食品企業の大手「ニチレイ」が当国と関係しているようです。

ニチレイの水産事業部の中に、モーリタニア産「壺たこ」プロジェクトがあって、そこでも詳しく書かれていますので興味のある方は以下のサイトをご覧ください。


前半後半とあります。クリックでニチレイ

モーリタニア大使館のホームページ





タモリの【 一杯のかけそば 】チクリは的外れ・・・忘れてはいけない日本人の精神

タモリの【 一杯のかけそば 】チクリとは、こちらを参照
https://bit.ly/2NlT8ij



 その後も、「ホームレス」とか「子どもの貧困」など時代が変わっても社会的弱者は生まれ続けています。話が長くなりますのでタモリチクリについてはここまでとします。本題に戻り【 一杯のかけそば 】のお話が生まれた経緯を説明しましょう。

 平成生まれの若者たちにも読んで頂けたらいいな。


一杯のかけそば 


 大晦日の晩、札幌の時計台横丁(架空の地名)にある「北海亭」という蕎麦屋に子供を2人連れた貧相な女性が現れる。



 閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。







 店内に入ると母親が「かけそばを1杯頂きたい」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出されたかけそばをおいしそうに分け合って食べた。



 この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった「北海亭」のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。




 「北海亭」の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。




しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日、母とすっかり大きくなった息子2人が再び「北海亭」に現れる。



 子供たちは就職してすっかり立派な大人となり、母子3人でかけそばを3杯頼んだ。






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引用:Wikipedia

 『一杯のかけそば』は、栗良平による日本の童話、および同作を原作とした日本映画作品。実話を元にした童話という触れ込みで涙なしには聞けない話として、1989年に日本中で話題となり、映画化される[1][2]など社会現象にまでなった。



経 緯
 もともとは作者の栗良平が語り部となって、全国を行脚して口演で披露していた話である。それが1988年に『栗良平作品集2』の一編として書籍となる。出版後、口コミでじわじわと人気が広がり、それを共同通信が地方紙に記事を配信し、同年の大晦日にFM東京の『ゆく年くる年』の中で朗読された。



 翌1989年1月22日に産経新聞が取り上げ、2月17日には衆議院予算委員会審議において公明党の大久保直彦が竹下登首相に対する質疑で当時話題となっていた本作のほぼ全文を朗読・紹介して、リクルート問題に関する質問をし、同じ自民党の金丸信も泣いたということで話題になった。




その後、「読む人誰もが涙するという幻の童話」という触れ込みで知る人ぞ知る話として『週刊文春』は全文を掲載し、ワイドショーなどを賑わせ、マスコミで話題となり5月に大きなブームとなる。中でもフジテレビ『タイム3』は中尾彬、武田鉄矢、森田健作などの有名人を迎え、一週間の間を連日「一杯のかけそば」を朗読するまでに至った。



 ブームの反動として実話という触れ込みで発表されたこの話が実は創作ではないかとの指摘やつじつまが合わないとの批判もなされるようになった。上岡龍太郎は「閉店間際なら売れ残った麺がある。店主は事情を察したなら、3人分出すべきだった」と弁舌鋭く指摘した。



2010年、韓国で「うどん一杯」というタイトルで映画化がされている。また、舞台演劇としても韓国では上演されており、続編も公開されている。




 作者が『一杯のかけそば』を口演して日本各地を行脚したため、物語に感動した有志たちによる「一杯のかけそばを読む会」、「栗っ子の会」が結成され、これが日本中へ作品を広めるきっかけとなった。栗っ子の会が『一杯のかけそば』が収録された『栗良平作品集』の出版元となった。






針穴より太めの糸を通す方法【糸通しが無い場合】



針穴より太めの糸を通す方法を説明します。



 針穴より、ちょっと太い糸を通すには一工夫いりますね。昔、母親がよくやってました。糸をなめなめして先をこよって細くして、さら目を細くして通すのに苦労している姿を思い出します。


 私は男なので小学校の家庭科で雑巾を縫ったのが最初です。その後、独り暮らしを始めるまで裁縫なんて経験がありませんでした。


 独り暮らしを始めてからたまにボタン縫いとか靴下の穴ふさぎをやるようになったのが二回目です。


 そこで面倒だったのが糸通しです。何分男ですからそんな小まめな仕事はやりたくないのが本音です。と言いたいところですが私、職人肌と言いますか理系の学校へ行ってたもんで興味が湧いてきたのです。


 その時マスターしたのがこの方法なんです。現在では100均で簡単に手に入りますがそんなの無くても簡単にやれるんですよ。



① ちょっと太めの糸を通したいのですが、通りません。





② 細い糸を用意します。





③ 通せたら、他方を戻し通し    






④ U字のような輪ができました。





⑤ 通したい太い糸を入れます。






       ⑥ 引き抜いたら完成です。       



どうです? 簡単でしょ。裁縫の時には思い出して使ってみてください。では・・・

         



         


懐かしき昭和のジオラマ・・・寅さんが帰ってまいりました。


貧乏やったけど、田舎にも人がいて活気があった。
今は誰もいなくなった。

https://youtu.be/9yKgQFRlzko
👆 クリックで動画が出ます。



昔を偲んで
寅さんの曲に合わせたジオラマ









みんなが助けあって活気があって。 今は何かを忘れてしまっている。 何でもかんでも自動とか、そりゃ便利にはなるけど、私は昭和を生きて良かったと思う。


暖かくて幸せな世界だった・・・今はこの頃を知らない人が多いよね。



うっ小学生のあの頃に戻りたいなあ・・・



便利で豊かになればなるほど、人も社会もダメになって行くような気がする。



昭和の穏やかな生活・・・もうそこへはいない自分にもどかしさと刹那さも、こんな感じは何と言うんだろうか・・・・・・・・・・・・・・・

皆さんそれぞれで感じて、思い出してください。






おいおい台湾は日本なのか? 松山駅のように日本と同名の駅がドヒャっとあるのは何故だ!


台湾には、松山駅のように日本と同名の駅が
    32もあります。









同名駅は32
 鉄道路線表
クリックで拡大

台湾観光協会日本東京事務所



 近年、台鉄と日本の鉄道会社や公共団体との友好協定締結頻繁に行われるようになってきました。

 その背景には、元李登輝総統の民主化政策や2016年の台湾総統選挙で、民進党の蔡英文が選ばれたことも大きいでしょう。何と言っても中国に対する気兼ねが無くなったのですから。

 特に、観光客の誘致や貿易の活発化、人的交流は台湾にとっても日本にとってもプラスになり、台湾の日本語世代にとっては日本統治時代に還ったような幸せな気分にさせてくれるでしょう。




日本と同じ名前の鉄道駅

 台湾メディア・自由時報電子版は2017年8月、日本と台湾には32の同名駅が存在することを伝えました。

宜蘭線:大里、亀山、中里
内湾線:竹中、横山、富貴
縦貫線:松山、板橋、桃園、富岡、大村、田中、水上、
    新市、大橋、岡山
海岸線:大山、日南、清水、追分
台中線:豊原、豊富
屏東線:竹田、東海
北廻線:新城
台東線:平和、豊田、南平、大富、瑞穂、池上、関山


 日本統治時代に命名された多くの鉄道駅が、今もその名前を残しています。日本と台湾双方の観光当局が双方の多くの鉄道ファンによる相互訪問を促進しているのです。


  現在の日台観光交流は台湾人が日本を訪れるケースが主体になっていますが、台湾の機関区や工場を見学しに来る日本の鉄道ファンもいるのです。同名駅や日本の鉄道会社と友好関係を結ぶことは、日台友好の一環となるほか、観光赤字の改善にもつながるのです。(台湾鉄路管理局の陳裕謀副処長の話)



 例えば、近鉄名古屋線の桃園駅、JR常磐線の富岡駅などがこの例にあたり、いずれの駅名も台湾の桃園市で見つけることができます。


桃園市 桃園駅


桃園市 富岡駅


友好協定締結

台北市と愛媛県が友好交流覚書に調印
 サイクリング交流を促進
中村時広・愛媛県知事(左)柯文哲・台北市長(右)

 台北市と愛媛県の「松山」という共通の地名をきっかけに台北松山空港と愛媛松山空港を結ぶチャーター便、台湾鉄道とJR四国「松山」駅の友好交流を行っているほか、両地の温泉交流なども行われていると述べ、愛媛県には「しまなみ海道」などの人気サイクリングコースがあることから、今後台湾とのサイクリング交流のますますの発展に期待を示した。       
 台北市と愛媛県のサイクリングロード網を姉妹ロードとし、サイクリング活動を通して観光、文化、スポーツ、教育、産業などの分野の交流活動を促進する。
台北市政府 2016年5月18日



JR四国と台鉄が車両デザインを交換

 JR四国は2017年3月15日(水)、台湾鉄路管理局(台鉄)との友好鉄道協定締結1周年を記念し、8000系電車と台鉄EMU800型電車のデザインを交換して運行すると発表しました。











ラッピング作業中


日本JR四國 友好鐵路協定彩繪列車 基隆站
  台鉄では、EMU800型8両をJR四国8000系のデザインにラッピング。通勤、通学用車両として、台北駅、松山駅などの都市間で運行します。

 JR四国では、予讃線を走る特急形8000系3両を台鉄EMU800型のデザインにラッピング。特急「いしづち」(高松~松山)間で運行します。



台湾・新竹駅と東京駅の姉妹駅締結

 
台湾西北部の新竹駅と日本の東京駅が、駅舎完成100周年を契機に、姉妹駅関係を結びました。職員の相互訪問や交流活動も行われています。


現在の新竹駅



姉妹提携締結式/台鐵路透社
 2015年2月12日、新竹駅にて、姉妹駅関係締結式が行われました。



宮崎県と台湾・桃園市との友好交流協定
 都城市スポーツ少年団と新竹県竹東鎮の野球少年団との交流が切っ掛けとなり今回の締結に至った。
左:鄭文燦市長  右:宮崎市長
交流協定の内容
1 文化芸術、観光、教育、スポーツ・産業などをテーマとした交流
2 行政関係者などによる相互訪問
3 民間団体間の交流促進
平成29年10月5日




台鐵×京浜急行 相互ラッピング列車運行 
 京急が友好鉄道協定締結1周年記念として、台湾鐵路管理局と京急において、互いに相手の鉄道車両のカラーをまとったラッピング車両が運行されました。
台鉄で運行している京急ラッピング列車

京急で運行している台鉄ラッピング列車



台鉄「プユーマ」号のデザインが
東武鉄道「りょうもう」号に登場


 “普悠瑪”ピューマは2013年に運行を開始した台鉄の在来線特急列車で、製造は日本車輌でされました。台湾で人気の列車です。
 日本国内の鉄道事業者数社は台湾鉄路管理局(台鉄)と「友好鉄道協定」を結んでいますが、そのうちのひとつである東武鉄道では、東武の特急『りょうもう』として運用されている200系電車が、台鉄のTEMU2000形電車“普悠瑪(プユマ)”のデザインに塗り替えられました。
2016年6月








台湾の鉄道史・・・日台間には運命的な絆があるようだ


台湾の鉄道史


清朝統治時代
1893年(明治26年)に基隆ー新竹間が開通。
 清朝時代は蒸気機関車を8両保有しており、1号機と2号機はドイツ、ホーエンツォレルン機関車で、別名「騰雲号」

騰雲号
イギリスのホーソン・レスリー社製。

掣 電

当然この時は、日本製のものはない。
(資料:全台鉄路商務総局)

日本統治時代 
日清戦争に勝利し下関条約より1895(明治28年)統治始まる
 台湾縦貫鉄道の建設に取り掛かる。1908年(明治41年)4月に縦貫線の基隆 - 高雄間404.2km 開通。 

データは1943年(昭和18年)10月現在のもの


日本が導入した機関車および気動車
CK101
 1910年代に日本は過熱式蒸気機関車の国産化に成功し、台湾の蒸気機関車も国産(日本)となるのは自然の流れであった。この頃台湾総督府鉄道では、牽引力のある汽車製造製の50形(後の台湾鉄路管理局CK50型は戦後CK100型 (CK101 - CK108) と改称)14両が、縦貫線で主力として使用されていた。  縦貫線:基隆駅ー高雄駅


気動車


気動車 キハ07形:日本車両・川崎車両製
台北にある公園で屋根付きで保存

1945年日本敗戦

中華民国時代
日本敗戦後、中国本土から逃れてきた国民党(蒋介石)により
台湾統治がはじまる。


 
 台湾鉄道の動力近代化は1950年代から始まり、ディーゼル機関車はアメリカ、気動車は日本で製造されたものが台鉄に投入された。


DR2700型気動車 東急車輛 ( 運用開始1966年  引退2014年 )


 その後、1972年日中国交正常化で日台関係が冷却化したこともあり、1970年代後半の西部幹線の電化はフランスの技術支援によって行われ、電気機関車はアメリカ、電車はイギリスや南アフリカ等日本以外の国から導入された。そのため、台湾の鉄道は様々な国の技術を混載したものとなっている。

DR2800型気動車 東急車輛 運用開始 1982年

 DR2800型気動車は、DR2700型のバージョンアップ版で非電化区間の東部幹線にて「自強号」に運用されている。自強号(日本の特急に相当)
  

DR1000型気動車 東急車輛 運用開始 1998年
 1992年12月、南廻り高雄~台東新駅(1982年に卑南駅として開業 1992年12月台東新駅に改名、2001年12月台東駅に改名) 間が開通して念願の台湾一周が完成した。


 2007年1月、台湾高速鉄道(日本の新幹線をアレンジ)が開通すると日本製車両が次々と導入されるようになる。

詳しくは下記リンクよりご覧ください。

 日本が敗戦しなかったら、あるいは蒋介石(国民党)が中国大陸から逃げて来なかったら、台湾はもっと発展していたかもしれない・・・
台湾高速鉄道 2007年1月開業
JR東海、JR西日本共同開発
製造  川崎重工業、日立製作所、日本車輌製造

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