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ジョン万次郎=中浜万次郎 |
助けて教育してくれてホイットフィールド船長 |
150余年前、日本人として初めてアメリカに渡り、測量や航海術などを学んだ後、鎖国時代の日本に帰国し、日本の夜明けや国際交流に多大な功績を遺したジョン万次郎。
民主主義や外国での生活・考え方など、坂本龍馬の開眼も万次郎の体験によることは明らかで、ほかにも板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などに多大な影響を与え、後に中浜万次郎と名乗った彼は、 1827年、現在の土佐清水市中浜に漁師の子として生まれました。
ご挨拶
名誉館長:ビビる大木 |
高知県観光特使
幕府と新明治政府
1860年 【33歳】
日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込む。
この艦には、艦長である勝海舟をはじめ、福沢諭吉といった人物の姿もあった。
この年、桜田門外の変 がおこる
1861年 【34歳】
外国奉行水野筑後守忠徳に同行し、小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面作りをする。
1862年 【35歳】
妻・鉄が病死する。
幕府の帆船・一番丸の船長に任命される。
吉田東洋死去
1863年 【36歳】
小笠原諸島の父島より捕鯨出航。マッコウクジラ2頭を捕獲。
ホーツン事件
(父島で強盗未遂の外人水夫2名を逮捕する。)
日本人が初めて外国人を逮捕した事件
薩英戦争
生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した戦闘。 (生麦事件:横浜港付近の生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。
新撰組が結成される
長州で奇兵隊が結成される
1864年 【37歳】
薩摩藩開成所教授に赴任。航海、造船、測量、英語を教える。
1865年 【38歳】
長崎に出張し、薩摩藩の船を購入する。
1866年 【39歳】
土佐藩主・山内容堂公の依頼により、後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立に寄与する。
また、後藤象二郎などと上海に渡り、土佐藩船(夕顔号)などを購入する。
1867年 【40歳】
薩摩の招聘(しょうへい)を受け、鹿児島に出張していたが、12月、職を辞して江戸に帰る。
正岡子規 誕生
土佐藩から江戸深川砂村の屋敷を賜る(明治13年までここに家族と共に住まう)
秋山真之 誕生
明治新政府により、開成学校(現・東京大学)の二等教授に任命される。
スエズ運河開通
(エジプト)
普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣される。
ニューヨークに滞在した際にフェアヘーブンに足を運び、ホイットフィールド船長と再会。
ロンドンからの帰国後、軽い脳溢血で倒れる。程なく全快するが、その後は静かに暮らす。
脳溢血にて没する。
万次郎が従来の日本史に於てあまり高く評価されていないのは、彼が武士階級の出身でなく、当時の封建社会に於ては身分低きものとされていた漁師の出身だったからだといっています。
しかし民主主義の国となった現代の日本では、そういう偏見にとらわれないで、百幾十年前に、最初の日本人として渡米し、日本とアメリカの間の最初の懸け橋となった蔭の立役者ジョン万次郎の事を、もっともっと多くの日本人が知るべきではないでしょうか。