張 藍好と張 甲二遺族 張甲四は第15回特設勤労団に参加し、
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昭和18年(1943年) 張甲四(中央、日章旗を持つ) 出征時の写真。母は向かって右隣、長男・甲二は後列右端 |
――母・張藍好の話――
14歳で結婚して、いま82歳です。6人の男の子の母になりました。次男の甲四は18歳で志願し、お国のためにいさんで出かけていきました。
最期の地はニューギニアのビアク島〔戦闘は1944年5月27日~8月20日〕です。はっきり死んだ日付はわかりません。隣部落の青年が帰ってきて消息を伝えたとき、はじめて死んだと知りました。遺骨もなく、ただ靖国神社の名簿に入っているそうです。
帰国を楽しみに待っていました。(駅が近いので)汽車の音が聞こえると我が子が帰ったのではないかと思うのですが、いくら待っても帰ってこない。いい子だったのに……毎日毎夜悲しんでいます。
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昭和60年(1985年) 上の写真と同じ場所で 張藍好と長男・甲二 |
――兄・甲二の話――
そのあと大陸から来るものは何でも北京語。再教育を受けて中国の学校の教員免許をもらいましたが、教育勅語から三民主義に変わったのだから、一大変化です。頭の切り替えが大変でした。
尽忠報国、天皇陛下に忠を尽くさねばならないと教えていたのに、日本帝国の思想・政策と民主主義は180度違う。昨日までは日本人、今日からは中国人。子どもたちには「中国に還った」と教えました。
日本に対する敵対行為というより、どうしたら中国に功労できるか、孔子の教育思想、修身のようなことを重点的に教えた。
わたしは、日本が台湾に授けた教育は成功したと思っています。秩序、礼儀作法、経済方面、何を見てもいいところが多い。日本の教育といまの(台湾の)教育を比べれば、雲泥の差ですよ。
中年以上の人は東条英機を皆嫌うけれど、天皇を嫌う人はいない。まだ尊敬されてます。戦争責任は海軍や陸軍にあって、天皇にはない。
日本人で嫌われていたのは、横暴でわがままですぐ殴る当時の警察。終戦後、横暴な警察だけはつるし上げをくったが、他の日本人にはそんなことはなかった。台湾人の保護を受けて、朝鮮や中国の在留邦人に比べれば幸運でした。いまでも教え子が来たら歓迎します、交流ありますよ。(日本語発)
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鄧 来添
陸軍東部86部隊 上海 捕虜監視員 昭和19年(1944年)上海陸軍射撃場の建設現場での機銃掃射により左下腿部切断
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「右下の賞状をもらったのはわたしだけです」 |
足が不自由なので、昭和22年(1947年)に畑で転んで右腕を石にぶつけて傷口が化膿して、切断しました。医者は余りの貧乏をみかねて、お金をとりませんでした。
わたしは畑の草取りだけ、妻は日雇いに出ていました。みんなが同情して田畑の水源管理人にしてくれました。
それでも月300元(1,800円)です。田畑もすべて売ってしまいました。近所の人や親戚からの援助でようやく食べてこられました。
戦前、わたしは昼に農事実行組合の書記、夜は国語講習所の講師をしていました。俸給は65円もらってました。日本時代はよかったです。
差別もなかった、日本人の言うことをよく聞く人には、ですけれど。士官は部下をよくかわいがってくれました。
日本の病院を退院する時に千円もらったけれど、ひと月で食べてしまいました。米一斗が200円の時代ですから。敗戦だったからしょうがない。日本は悪くない、怨みはありません。
日本の経済がよくなったら慰問金を送って下さい。わたしは戦傷でまだよかったが、戦死に補償がないのは気の毒です。
日本は原子爆弾に負けました。もし、原子爆弾さえ落とされなかったら必ず勝っていました。(日本語談)
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「朝食のあとは1日中この椅子に座っています」 |
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山口達男/バッサオ・ワタン(泰雅族)張 金章
大正14年(1925年)生 南投県仁愛郷 農業昭和18年(1943年)第1回特別海軍志願兵 軍人 駆逐艦
戦前、教師と警丁〔警官の助手〕を拝名していたが、兵隊の方が好きだったし、尊敬されるから天皇陛下のために志願しました。
6ヵ月の訓練のあと、南方のフィリピンやコレヒドールに行き、長く艦隊にいた。飛行機が宣伝ビラをまいたので終戦とわかりました。
敗戦後、バターン半島で3ヵ月収容されてから高雄に着いた。高雄からここまで帰る旅費も食料もないので、大陸の兵隊に着物や時計や靴を売ってようやく帰って来た。
家に着いたら、1ヵ月前に母が死んでいました。
帰国後1ヵ月して遺骨が届いたけれど、砂や石が入ってただけで本当の遺骨と違う。わたし、捨てたよ。
戦後も苦しいのには変わりない、自由にはなったけれど、生活の基礎がないからね。
日本人とは何年も一緒に暮らしました。総督府は良いけれど、山に入ってくる警官は悪かった。派出所を建てるために木を切らせて運ばせる。5人家族なら5本のヒノキを今日中に持って来いといわれる。
それから週1回宴会をするのだけれど、その食料を調達させられました。道路工事や運搬の義務が多かったので、自分のところの粟や芋を作る暇もなかった。
1日義務にでないと、殴られたうえに3日義務に出される。日本の教育や政治は良かったけれど、各集落の警官が悪かった。だから霧社事件が起こったんだ。
巡査は出征兵士の奥さんをやって、沢山あいのこ出来たよ。巡査がやらせろと言ったら怖くて断れないよ。
わたしは25年前からカトリックです。良い話があってとてもためになる。山の人、宗教のない昔は敵・味方に分かれて首切りなんかもしてたけど、いまはみな兄弟で、往来もできれば取引もできる。
日本時代は天照大神だったが、説教もなくただお参りするだけで意味も何もわからん。(日本語談)
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「写真が傷んだので4年前に絵を描いてもらいました。かっこいいでしょう」 |
*註
霧社事件=1930年10月27日、霧社公学校(現・
南投県仁愛郷)の式典に集まった日本人139名が山地先住民・泰雅族に殺された抗日蜂起事件。強制労役や日本人との婚姻問題など複数の要因が重なって決起に至ったもので、日本の警察と軍隊はおよそ2ヵ月かけてこれを鎮圧、644名の死者を出した。翌年の報復事件(第2
霧社事件)を含めると約千名が犠牲となり、生き残った200余名は山から下ろされ
川中島(現・清流)に
強制移住させられた。
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長寅健一/張 長寅
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「戦前、わたしの家はこの地方で一番大きな用品雑貨屋をやっていた。 水田も10町歩あり、国語家庭でもあった」 |
熱地農業技術員養成所の1回生だったが、ラバウルでオーストラリア軍の機銃掃射にやられて、右腕を失った。戦地では上官が、もし死んでも家族は国が面倒見るから安心しろと言ってたよ。
こんな体になって、人生観が変わった。希望も全部なくなり、仕事をする気力も失って…… 終戦後、帰ってきたときにはまだ財産があったけれど、土地改革法で田んぼは小作人に払い下げられた。
もらった債権も6年で食いつぶし、次に店を売った。禁じられてる玉突きの店をやったりしたけど、ここ10年は売る物もなくなり、友人と姉の援助で暮らしている。
出征前に約束していた女性は他の人と結婚してしまい、その後の結婚話は全部断った。いまは内縁の妻と娘と息子がいて、生活はとても苦労している。籍を入れない理由? ……前途がないからね。
天皇には何の感情もない。わたしにとっては死んでいるのも同じ。天皇のため、日本のために負傷してきたのに何の面倒も見てくれない。
もう日本語なんてしゃべりたくないくらいだ。補償してくれるんだったら、早くしてくれ。生きているうちにもらえなかったらしょうがない。誠意がなければブーハット(無法度)だね。(日本語発)
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王 朝坤
軍属
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「わたしは明日かあさっていなくなる(死ぬ)が、 天皇陛下に忠誠を尽くしました」 |
役場の半強制で召集されて小行李(しょうこうり/弾薬運び)として日支事変の上海上陸作戦に参加した。3、4回手柄を立てて勲八等瑞宝章をもらった。
2年戦争に参加して、負傷し九州の小倉病院に4ヵ月入院し、後送された。勲章は二二八事件〔*註〕のころに捨てた、書類も捨てたよ。
戦争はいかん。人が死んで、戦傷して、こんなことはいかん。かわいそうだ。
天皇陛下は50年間台湾を守った、人民を保護した。本当にありがたい。日本精神よかった、戦争も強い、日本人の印象はいまでもよい。
いまの中華民国もよい。蒋介石は日本の罪を免じた。ありがたいことです。
息子の献臣は昭和18年(1943年)に戦争に行き、いまでも帰ってこない。戦死の通知はもらってない。日本帝国には、子どもを連れて行った責任がある。
わたしは年を取っても恩給がない。補償は、紙に書いているだけで実行してくれない。日本の失敗は、報いてくれないことだ。補償をすると損をするというのは間違いだ。
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「桃園の中学を出て、仕事は百姓、田んぼを作ってた」 (村長)や農業実行組合の組長を務めたこともある王朝坤さん。 もうけた五男三女のうち長男だけが帰らない。 |
*註 二二八事件(
二・二八事件)=1947年2月27日夕刻に起きた
台北における闇煙草の取り締まりをきっかけに、翌28日に発生し台湾全土に広がった民衆の抵抗事件。戦後台湾に入ってきた国民党政府への不満が爆発した偶発的な事件で、国民党軍の報復的鎮圧により2万人を越える
本省人知識人や芸術家、学生らが命を落とした。犠牲者の人数はいまだ特定されていない。事件をきっかけに発令された
戒厳令は1987年まで継続した
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楊 周球
遺族 長男・楊碧年は第19回特設勤労団の軍属としてニューギニア・マノクワリで戦死 ★日本名なし
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「生きているうちにもう一度あの子の顔が見たい」 |
わたしの家は製糖会社の貧しい小作で、10人きょうだいの長子だった息子は日本語ができなかったのですが、部落書記に勧誘されて入隊しました。
飼っていた牛の面倒をよくみて、兄弟げんかはしないで仲良く畑仕事をするように――そう、涙ながらに言い残して。わたしは涙は見せないようにしました。
入隊の3日後には、何の訓練も受けぬまま高雄から出港したそうです。19歳でした。
3ヵ月後に代筆の手紙が来たけれど、住所ははっきり書いてない、海外だというだけでどこへ行ったのかもわからない。
その後も2、3回便りがありましたが、わたしも文字が読めないし、どうにもなりませんでした。
一緒に出征した隣村の人が戦後遺骨を持ってきてくれて、はじめて息子の戦死を知りました。髪の毛と爪と小指が入ってました。
それ以前に20数円が戦地から届いていて、大切に終戦後まで残しておいたのですが、皮肉なことにあの子の葬式代に消えてしまったのです。
おじいさん(夫)は体中病気です。わたしは左眼を失明して、右眼も顔の輪郭がわかる程度。いまは自炊しながら鶏の羽の選別の内職をしているけれど、1日やっても醤油1本買えるか買えないかのお金しかもらえません。
死んだ者は死んでしまった。40年も経ってしまっていまさら何を言ってもはじまらないけれど、息子も中村輝男さんのようにひょっこりジャングルから出て来はしないか、などと思ったりします。
わたしは年寄りで話が下手で、何を言っていいのかわかりませんけど、日本人に良心というものがあるのなら、良心にのっとった行動をしてください。
――通訳者による補足――
この村一帯はかつて日本の製糖会社の土地でした。こういう寒村では珍しくないことですが、子だくさんで、子どもは誰も学校に行っていない。だから日本語も話せないし、字も読めない。楊周球さんは、日本に
天皇がいるということも知りません。日本人は村人の無知につけ込んで、強そうな若者を力仕事のために連れて行った。命令されて行っただけで、
愛国心とは無関係です。
息子さんの仕事は土方仕事、飛行場作りなどの敷設部隊です。軍隊の最下部の軍属、クーリー(苦力)だから訓練もいらなかったのでしょう。
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蔡 順庫
第23回勤労団 軍属 ハルマヘラ島 兵器廠 機銃掃射で右大腿部貫通創
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「日本精神はバカ精神だ。バカ正直だ。 だからこんなひと月千元のあばら屋に住んでるよ」 |
馬場中隊長にはずいぶんいじめられた。負傷してるのに薪割りをさせられたよ、飯を食べるなら仕事をしろとね。軍刀で尻をなぐられたしビンタもくらった。
いま寒くなると傷跡の筋が引いてそれが頭にまできて、走り回る痛さだよ。終戦の時、かわいそうなもんだよ、空襲でもだいぶやられたよ。
戦争に行く前は、台湾銀行で給仕をしていた。帰ってきてまた雇ってもらえるかと思ったが、足を負傷しているのでもうだめだった。重い仕事ができないから、レンコン茶の露天商をしている。
「新高(にいたか)の山のふもとの民草も 茂りまさると聞くぞうれしき」――明治天皇御製、いいでしょ、この言葉。いまでも好きでよく覚えているよ。
昔の天皇陛下は臣民を愛しとるんですよ。日本を統治している尊い偉い人間だった。でも、いまは何も思わないよ、国が違うんだから。
戦後『明治天皇』という映画が来たが、天皇陛下が登場したら皆一斉に起立した。外省人はおかしくてたまらなかったでしょう。
いじめられたことは、軍律だからしょうがない。こんなに苦労しているんだから日本はわたしの生活を助けてくれ、慰問してくれと言いたいが、誰に言っていいのかわからない。(日本語発)
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太ももにある貫通銃創の傷跡。「この怪我じゃ子どもはできない と思ったけど、結婚は30歳。でも毎年できて5人だよ。 金がないからまだ3人は結婚していない」 |
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湯川孝二/ユウスウグ(鄒族)湯 保福
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「高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入って一番良いことだった」 |
志願して、南海派遣《猛》第2689部隊に入り、工兵として道と橋を造りました。男と生まれた以上は兵隊に行かなければならないので、この部落では皆争って行ったですよ。
高砂兵180人中、帰ってきたのは4人だけ。それくらい戦地はひどかったですよ。戦死した人の髪の毛と爪を持って帰りました。
せっかく遠いところに行ったのに、負けたのは哀しかったよ。戦死した戦友のことを考えたら涙がこぼれて、この歌を思い出すよ。
♪歓呼の声や旗の波 「あとは頼む」のあの声よ これが最期の戦地の便り……(皇国の母)
戦後、食べるものなかった。二二八事件のとき、嘉義県ひどかった、国民党とずいぶん戦争したよ。一生懸命仕事して、3、4年ではじめて楽になった。
日本人は差別もしたけど、いいこともしたよ。水田、孟宗竹、麻竹、油桐、内地桐、杉、山茶花、棕櫚、みんな日本人の指示で植えた。いまはこれで食べていけるよ。
天皇陛下ですか。んー、当時はどこへ行っても神様のように拝んでいた。いまの天皇陛下はどんなことをするのかわからない。いまは選挙で選ぶんですか?(日本語発)
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政府に言いたいことは、「その時代(義勇兵時代)の俸給を もらいたい。貯金通帳はもうなくしたけれど、番号は覚えてる」 |
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松下和子/ロビ・ロバオ(泰雅族)
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「母(写真左)の生活を見ていると苦しみがよくわかります」 |
父はわたしが2歳のとき戦死し、母は戦後ケガして帰ってきた兵隊と再婚しました。粟ご飯と芋で大きくなりました。学校へは靴がなくて裸足で行った、着物は固い麻でつくったもの。
本当の父のことは憶えてないけれど、一緒に撮った写真あります。
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泰雅族の民族衣装をつけた松下和子さん |
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吉川正義/ワタン・ノウミ(泰雅族)何 義春
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「いまでもやはりぼくたちは帝国軍人だと、そうしゃべってるよ。 周囲の人に『帝国軍人来たぞ』と言う」 |
昭和17年(1942年)、国のために仕事をしようという大きな気持ちで志願したよ。この部落からは一人だけで、(霧社からは)4名出征して3名が生き残った。
香港、ビルマ、ニューギニア、ソロモン島を経由してジャワに着いたが、戦闘はなく、仕事は警備。でも爆撃は受けたので大勢死んだ。わたしらは負けるとは思ってない、一生懸命仕事やってたよ。
終戦のときチモール島から退却してビルマに行ったが、中隊長は「闘いはこれからだ」と行軍した。フィリピンに来て戦闘続けたね。最後は戸田侍従〔戸田康英 1911-77〕がフィリピンに来て玉音放送を流したので、それで信じた。
中隊長が「いたくシンキン〔宸襟〕を悩ましている天皇陛下に捧げ銃!」と号令をかけて終わり。死んだ兵隊かわいそうね。
貯金通帳も軍票も、中隊長に言われて全部燃やした。捕虜にはされなかったが、ジャワのスラバヤで5ヵ月雑用して台湾に帰った。
帰宅したら父親は生きていたけど、食べ物ない。ずっと芋と粟、そういう生活長かった。病気になると歩いて薬をもらいに行ったよ。
日本は厳しく教育したため、山の人も良くなった。首取りばかりやっていたのを、天皇の名前を使って治めてしまった、ありがたいよ。
山地の人は正直、教育された通り信じる。軍隊でも日本人と同じ飯、同じ教育、差別はなかったよ。
天皇への崇拝の気持ちは残っている。テレビ見てるから、もう神様とは思わないが。日本に行ったことあるけど、宮城礼拝をして帰ってきた。
(軍人になったのは)仕方がないもん。補償金もらって、ああ解放されたんだなと、そういうふうに思いたい。(台湾人元日本兵は)年取ってどんどん亡くなっているから、補償は速やかにした方がいい。(日本語談)
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「日本は親の国、なのに(補償金を払わない ことで)汚名を子々孫々残したくない」 |
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加藤直一/パキシャン・ナオ(布農族)高 聰義
旧台北帝大農林専門部を出て総督府殖産局農林課に勤務 昭和18年(1943年)に志願し海軍特別陸戦隊の軍属としてニューギニアに出征 ウエワク湾で実弟の乗った船が沈没するのを目撃 1946年復員
1981年10月に補償問題の運動を知り、翌年台湾で訴訟代表後援会を組織し会長となる 1984年9月、東京高裁での第9回公判に証人として出廷 *1999年4月逝去*
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八・八提訴十周年市民集会で壇上に立つ(1987年8月8日、東京・主婦会館) |
「日本人と同等の補償を、日本人の手で渡してください」――これが弁護団が主張する2原則です。補償が下りても、台湾政府の代理人が来て渡したのでは気持ちが違うでしょう。
中曽根康弘首相〔1918-〕、有馬元治議員〔台湾人元日本兵等の問題懇談会会長/ 1920-2006〕、山中貞則議員〔同懇談会会長/ 1921-2004〕には心から感謝しています。
台湾での後援会会員は5、6名逃げたけれど、来る者は拒まず、去る者は追わない。みんな逃げて一人になっても、仕事は続けます。
たくさん部下を殺した、死んだ人たちを犬死ににしたくない。戦争は間違いだし、あってはならないことだけど、でも間違いがあってよかった。なければ日本はこれほど繁栄していない。
ぼくはいまでも自分を日本人と思っている。日本人の中国人なんです。日本はわたしの親・わたしの国であり、わたしを日本人として育てた国だから。
台湾がこんなにうまくいって、発展したのは日本の教育のおかげ。台湾は昔の日本以上に愛国教育をやっているが、ぼくはあんまり……
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「日本に4回行ったが全部自分の金、人に迷惑はかけてない」(1985年) |
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南郷元孝
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「戦争は負けると前々からわかっていた。どんな負け方をするか、 負け方の問題。ともあれ、残念だったことは間違いありません」 海軍中尉南郷元孝 |
国語家庭ではありませんでしたが、小学校から日本人と一緒に教育を受け、台北一中に入学。昭和17年(1942年)、広島文理科大学〔現広島大学〕2年のとき召集され海兵として3ヵ月の訓練ののち中尉に任官されました。
駆逐艦《朝顔》《春風》《夕凪》、重巡《妙高》、駆逐艦《五十鈴》、空母《飛龍》、戦艦《金剛》と渡り、駆逐艦《浜風》に乗っているときこれが轟沈し〔1945年4月7日13時頃。
戦艦大和が沈没した日本海軍最後の艦隊行動〕海に投げ出されて18時間漂流しました。
その間に、母親に戦死公報が送られたほどです。幸い別の駆逐艦《雪風》に拾われて《初霜》に渡され、終戦は佐世保の船の上で迎えました。みんな泣きましたよ。
10時には当直士官が一種軍装で集合をかけ、号令とともに戦闘配置につき、ラッパが鳴ると気を付けをして東の方角を向き敬礼する。
なにもない東の空をただじっと見ている。こんなことをしてたんですからね。戦友は、弾に当たって死ぬときも「天皇陛下万歳」と本当に叫んでいました。
いま、天皇は〔神ではなく〕人間だと思います。わたしは個人的に、天皇に戦争責任はないと思う。責任があるのは軍閥です。
俸給は海軍中尉が140円、大尉は180円が郵便局に振り込まれましたが、それが終戦で支払い停止になったものだから、台湾人が騒ぎ出した。
騒いだのは戦死者(遺族)と傷病兵で、我々帰還兵は騒がない。でも中村輝夫に政府がお金を払ったことからすれば、責任を取る気はあるはずだと思います。
戦後の苦労としては……精神的な悩みが深かったですね。自分のいままでやってきたことが正しかったのか。これはわたしだけではない皆のジレンマだと思います。
人を殺し、殺されて……現在の自分を発見するのに半年くらい時間がかかりましたよ。戦争に対しては「嫌い」という感情を持つというよりも、考えさせられますね。
戦後は教育畑に入りました。まず市役所の教育課長となり、その後は国立師範大学や陸軍の政治作戦学校日本語科、台湾大学、法務省司法官研修所に勤めて台湾の立て直しに努力しました。
教師としては、日本教育のいいところを取り入れました。教師が献身的だとか、法令や校長の命令に服従する、中心思想(日本植民地時代でいえば天皇崇拝)のある教育です。
逆に見習わなかったのは学生を酷使すること。便所掃除や草刈りはやらせず、体罰も禁止です。(日本語発)
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「短銃と軍刀は二二八事件のとき淡水河に捨てましたが、この “恩賜の煙草”は記念にとってあります。まだ香りはありますよ」 |
訪台以前は、台湾人はみんな日本時代を否定するものと想像していた。大陸(中国)や韓国の人がそうだったからだ。
ところが実際に来てみると、「戦前はよかった。それに比べていまの社会は……」と嘆く日本語世代の老人に出会う。天皇に批判的な人もめったにいない。
「日本精神」という言葉にも驚いた。優れたもの、尊敬すべきものが《日本》精神と呼ばれているのである。
日本精神とは、国粋主義や特攻精神ではない。教育勅語で謳われている倫理、道徳、公の精神を言っている。