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台湾の元日本兵への償い ⑤・・・あまりにも安すぎる。



④の続き

河野さんが台湾の元日本兵やその家族に取材した時の続きです。(補償確定以前)


台湾人日本兵


以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年(昭和60年)及び1995年(平成7年)に行った取材が元になっている。敗戦から40年。彼らは何を考えどんな生活をしているのか。日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録しました。



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洪 坤圳
大正14年(1925年)生 南投県草屯鎮 農業
原告 第2回農業義勇団・南東方面艦隊第8軍需部生産隊 軍属 ニューブリテンラバウル 敵機機銃掃射により右前腕部切断 ★日本名なし

「いまでも皆はわたしの畑を見てこれは“日本精神”だという。
負けず嫌いで勇ましいという意味だから、嬉しいよ」――
煙草の葉の選別をしながら



農業専修学校を出て台中の農業試験場で2年間奉職してました。徴用されて、訓練を受けてお国のために喜んで戦争に行ったよ。農作物を栽培して海軍に供給する。


敵軍は爆撃のみでラバウルには上陸しなかったので、負けたとは思わなかった。戦地では差別はなかったよ。


昭和19年(1944年)4月に畑で機銃掃射にあって病院に入って、昭和21年(1946年)3月氷川丸に乗って帰国した。日本で義手をつけてもらう予定で台湾陸軍病院で2ヵ月待機したけれど、そのまま家に帰ることになった。


利き腕を失って職にも就けない。片手で何ができるかと皆に言われたよ。


五体満足な人に負けないように左手で字を練習し、義手なしで鍬も鋤も持ったし、木に登っての薪取りもやったよ。戦地ではもっと苦労したんだから。


一視同仁といわれてきたのに、天皇や日本政府から慰問の言葉が一つもないのは淋しいね。


農業学校の同期は役所の課長さんだよ。みんな偉くなっているよ。わたしはね、田舎でひっそり暮らしているよ。(日本語発)


右端が洪坤圳さん。左から2人目に洪火灶さんがいる



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洪 火灶
大正6年(1917年)生 南投県草屯鎮 無職
原告 第1回農業義勇団・南東方面艦隊第8軍需部生産隊 軍属 ニューアイルランド島カビユン 空襲の爆撃により左下腿部切断

「裁判8年の感想をいわせてもらうと、司法の独立は嘘だ。公正じゃないよ」


昭和17年(1942年)に志願して、第3拓南農業戦士訓練所で3ヵ月の訓練を受けた。翌年3月に戦地に行き、昭和19年(1944年)10月に爆撃により足を切断。終戦の翌年に氷川丸で帰国した。


義足を作ってもらえなかったので、帰ってきた時は松葉杖だけ。周りからは、片足で農業はできないだろうと言われた。1年後に自分で木を切り抜いて義足を作ったよ。


義足を外し、ひざまずいて水田の除草もしたけど、きついので農地を売って商売をした。木工旋盤屋としてソロバンを作ったり。


でも詐欺にあったりして、あまりうまくいかなかったね。子どもたちはそのことをあまりよく思ってないから、いま小遣いをくれないよ。


天皇の印象は悪くないね。天皇の赤子だったけど、時世が変わったからしょうがないよ。


訴訟の前に戦傷者で相談して陳情書を日本政府に出した、台北の(財団法人)交流協会にも行った、でも回答がない。千葉さん〔千葉泰介 1913年生まれ、故人 「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」幹事として訴訟問題を土台から支えた日本人のひとり〕から連絡あって、やむを得ず訴訟を起こしたんです。日本は司法は独立している、訴訟で補償問題は解決すると。



だが、3年前に受けた判決では、ぼくたち台湾人は日本国籍を離れたから日本人と同じ法律は適用されないと。当時の補償を請求する権利は、戦争当時日本人であったとき持っている請求権だよ。


ぼくらが日本国籍を失ったのは日本政府のせいで、自分の意志ではない、敗戦でなかったらいまでも日本人だよ。


日本はポツダム宣言によって台湾の統治権を放棄したけれど、人民を誰にやるのか。日本の子でしょう、誰かに養子に出す時は戸籍上の手続きがいる。


日本政府はその手続きをしていない。台湾の国際的・法律的地位がまだ未定なのは、そこにも原因があるんじゃないか。(日本語発)

1979年5月の東京地方裁判所・第9回口頭弁論で、千葉泰介
証人により洪火灶さんの暮らしぶりが紹介された。それによ
ると、田畑を全部売り払った後に長らく台北の小学校の小使い
をしていたが、1978年にアヒルを飼う商売に転職したという。





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鄭 武定
大正4年(1915年)生 台北県中和市
林1611部隊 陸軍工兵隊 ビルマ

1980年、39年ぶりに帰国


鄭武定(右)と出征中に生まれ39年目に対面
した長男・鄭金太郎(その後、鄭再成と改名)

昭和17年(1942年)に招集されて、戦地はビルマルート雲南龍陵。戦況が悪くなって、工兵隊長は脱出命令を出して自殺した。わたしはひとり山中に逃げたが、爆撃で倒れた家の下敷きになって背中を打撲して意識を失いました。


その時ビルマの華僑に助けられてバンコクの病院に入院させてもらった。6ヵ月入院して、翌年、ビルマのもとの隊へ戻ろうと日本軍を捜しにいったのだが日本兵の姿は見えなかった。


その後菓子の製造をしながら暮らしていたが、43歳の時に友人華僑の勧めで結婚しました。こうして34年間高麗貢山で暮らす間に7人の子どもができました。


終戦は宣伝ビラで知りましたが、台湾人日本兵とわかると殺されるので、そのまま福建人で通しました。


1979年に、台湾から来た康さんという娘さんを家に泊めてあげたのだが、その時わたしの事情を知って、帰国後台湾政府に調査するよう交渉してくれた。


康さんのお父さんがわたしの本籍地の役所をあたってくれたがわからない。町でわたしの写真を見せた相手の老人がたまたま前の結婚の仲人で、出征後に男の子が生まれていたことがわかったのです。


出征した時妻は妊娠3ヵ月でした。男が生まれたら、金太郎と命名するよういい残しておいたのが妻はそのとおりにしていた。


その妻は15年前に他界、ビルマの妻も同じ頃亡くなった。台湾に息子がいることがわかって、故郷へ帰りたかった。


39年ぶりに台湾に帰った時は浦島太郎でした。帰国後は苦労したが、台湾政府が家を買ってくれたり、生活を援助してくれた。それにひきかえ日本政府は無責任だ。


天皇の赤子といって連れて行ったのにいまは慰問の言葉もない。日本政府は31年目に出てきた中村輝夫にはお金を払ったのに〔*註〕、わたしには全く知らん顔だ。


*註 日本政府は中村輝夫に対して帰還手当3万円と未払い給与3万8,279円を公式に支払った。このほかに閣僚から特別な見舞金200万円、ほかにも数百万円の義援金が渡されている。



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鄭 武定
大正6年(1917年)生 彰化市 内職
遺族 夫・洪添寿は第103海軍施設部軍属 昭和20年(1945年)5月11日フィリピン・ルソン島インファンタにて戦死

「大黒柱をとられて苦労してきたのに、何もしてくれない日本人が恨めしい」

女の子4人を残して、大黒柱の主人は戦死しました。わたしは瓦工場の女工をしました。重くて暑い仕事です。体の具合が悪くても、子どもたちを食べさせるために一生懸命働きました。


その結果がこの有り様です。心臓が悪く、頭はふらふらでひきつけは起こす……。


貧乏と食糧不足で、一人は2歳で死なせてもう一人は養女に出しました。ほかの子も小学校も出ていません。


この内職を朝から晩までやっても50元(日本円で300円)、毎日の薬代にもなりません。これも毎日ある訳ではありません。


ない時は粥を食べています。こんなに苦労してきたのに何もしてくれない日本が恨めしい。


天皇陛下は海の彼方にあって、わたしがいくら叫んでも何も応えてくれません。そんな陛下とは思わなかった。


楽しいという言葉はもう忘れました。お金はないし病身だし。ごらんになって下さい。わたしの顔に笑顔が見えますか。


洪廬嘴さん。内職の道具を前にして



つづく








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