棄てられた元日本兵士たち
ー補償金を要求して裁判ー
台湾が日本の領土であった間、「台湾人」は日本国の臣民であった。特に、統治最後の8年間は「皇民化運動」が推し進められ、天皇の赤子〔せきし〕として国家への忠誠を求められた。そのなかには、むろん戦争への協力も含まれる。
しかし、昭和27年(1952年)に発効した日華平和条約により、台湾の人びとは日本国籍を喪失する。それを理由に、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかったのである。
裁判の過程
昭和49年(1974年)12月、高砂族(主に山地に住む台湾の先住民)出身の中村輝夫(李光輝)元陸軍一等兵がインドネシアのモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。
しかし日本政府に動きがなかったため、戦後32年目にして上述の提訴となった。
昭和52年(1977年)8月、「台湾人元日本兵」の鄧盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり一人500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
すなわち建設工事や農作業のために動員された軍夫、通訳や警官助手、医療従事者などだが、これらも「元日本兵」に含まれている。
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日本政府の動き
横山議員は
【 台湾人元日本兵士の補償問題に関する対策は緊急を要すると考える。 かつて日本人であつた台湾人が、日華条約締結によつて瞬間的に日本国籍を失い、台湾人になり、そのため、日本政府に対する請求権が一切消滅したかの態度を日本政府がとつている。
実に二十一万人あまりの台湾人が日本軍の兵士・軍属として大戦に参加し、厚生省の調査によつても、三万千人の人たちが戦死し、戦傷者はおびただしい数にのぼつた。
戦死者の遺族と戦傷者は、戦後今日にいたるまで一文の弔慰金も、遺族扶助料も傷痍年金も支給されず、かつての敵軍であつた蒋政権の下で身をひそめ、人目をしのんで生活し、次第に老いて中には世を去りゆく人も少なくない。
政府は国家としての責任を痛感し誠意をもつてこの問題の速やかな解決に全力を尽くすべきだ。】と政府を追及した。
その後裁判を経て、500万が200万になって一区切りついた。
この軍事郵便貯金等の支払いについては、2000年(平成12年)まで続いた。
何故もっと早く、対応できなかったのか。悔やまれる結果となってしまい政治の負の遺産となったのは間違いない。個人的にも台湾の人にすまないと思う。
統治時代に育った台湾人(日本語族)は、よくこのように言っている。戦前のことについては良かった。懐かしい。反日じゃないよ。人によっては確かに差別を受けた人もいるが民族が違うのだからあって当たり前と軽く流してしまう。
それよりも、戦後の元台湾日本兵の補償や、中国に気を使いすぎて台湾に背を向けてきたことが寂しく悲しいという。
今は政権も変わり、若者も日本にたくさんやって来て交流が盛んになっている。他分野でも同様だ。日本統治時代に戻ったように仲良くやって行こう・・・