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台湾の元日本兵への償い ④・・・あまりにも安すぎる。




今回は、河野さんが台湾の元日本兵やその家族に取材したときの内容を挙げてみました。(補償確定以前)



台湾人日本兵



以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年(昭和60年)及び1995年(平成7年)に行った取材が元になっている。敗戦から40年。彼らは何を考えどんな生活をしているのか。日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録しました。

なお、「元日本兵」という言葉から、武器を持った正規軍人を連想する人が多いかもしれないが、彼らの多くは(高砂義勇兵を含め)「軍属」という身分であった。すなわち建設工事や農作業のために動員された軍夫、通訳や警官助手、医療従事者などだが、これらも「元日本兵」に含まれている。


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鈴木健二/蘇 鈴木
大正12年(1923年)生 嘉義県中埔郷 農業
原告 第2回農業義勇団・南東方面艦隊第8海軍軍需部生産隊 軍属 ニューブリテン島 ラバウル爆撃により左手親指 人さし指 中指切断 および全身に破片創 *1986年3月14日逝去*

「全身が破片創です。首の所は摘出せず、記念に残してあります」


勤業報国青年団の隊長からいいつけられて入隊しました。ラバウル爆撃は酷かったです。1日1千機から2千機の爆撃がありました。その合間に農作業をやっとったですよ。敗戦の時はがっかりしました。いままでの努力が水の泡となって消え、泣きました。


復員後、政府がかわったからわたしたちこそは気の毒ですよ。雇ってくれるところもないし、重労働もできないし。でも戦地での苦しみを考えれば楽な方でした。


天皇陛下は親であり、わたしたちは天皇陛下の子どもであるんだから、政府がかわったからといってもこの補償問題を早く進めてくれるのが本分だと思います。


教育勅語にこういう言葉があります。朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし……。明治天皇は偉いですよ。こういうことを言って、明治時代も大正時代も発展したですよ。


日本時代には差別がありました。たとえば、台湾人の国語家庭(日本語を常用している家庭)には改姓名〔*註〕が与えられるし白砂糖が配給されたが、普通の家庭では黒砂糖でした。しかし、社会としては安定した時代でした。(日本語発)

*註 改姓名=1940年2月に交付された法律に基づき、漢式の姓名を日本式に変更するもの。改姓名を希望する家庭の戸長(世帯主)が申請し、家族全員が変更した。台湾においてこれは強制ではなく許可制であり、国語(日本語)を常用し皇臣民たる資質のある模範家庭のみに許された。戦争末期になると、法定の手続きを経ずに日本名を名乗る台湾人もいた。




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李 比呂志/李 廣志

昭和19年(1944年)生 台中市東区
遺族 父・李爐は第3次南方派遣団・昭和19年マニラにて戦死

「父・李爐はもしもの事があればこの写真を祀ってくれといって出征しました」


「生まれてくる子が男だったら、フィリピンの比、ルソンの呂をとって比呂志にしなさい」という戦地からの最後の手紙によって、わたしは名付けられました。母は父の遺言を守って、苦労してわたしを育ててくれました


あなたは父のない子だから、転んでも自分で起きなさいと独立心を育てられた。おじさんやおじいさんに無駄飯食いと迫害されて、肩身の狭い思いをしました。6歳の時、あまりの生活苦に耐えかねた母が首を吊ろうとしているのを目撃した。


お母さんが死んだらわたしはどうなるのかと言い、思いとどまらせました。その時の苦しみを考えるといまでも涙がでます。


日本の政治家は、我々台湾人を戦争に駆り出す時、一視同仁、おまえたちも日本人であるのだからとごまかし、さんざん働かせて使い捨てにしてきた。昔、我々に信義、道義を教え、日本は武士道の国であると教育しておきながら、経済大国となったいま、知らぬ顔の半兵衛とは何事でしょうか。


欧米諸国では、植民地の旧軍人に対する補償はすでに人道的に解決しています。戦争中、日本は大東亜共栄圏の盟主であると言ってきました。その盟主である日本が、3万余人の台湾人戦死者に対して補償しないのはどういうことですか。この問題を早く解決しないと、わたしはこの怨みを子々孫々まで語りつたえる。


わたしは貧しくて日本へ行けませんが、もし、日本が陸続きならば皇居前でハンストをして、それでも承認が得られないならば手榴弾を投げたいくらいです。


わたしと同じ境遇の従姉が、台北で日本人相手の売春婦になりました。日本人観光客を見ると無性に腹が立ちます。

李爐の遺した修了証書と写真
※1982年4月1日付読売新聞朝刊「追跡 台湾の元日本兵(1)」記事によると、父が出征したとき廣志氏はまだ母の胎内にいた。裁判が地元の新聞に大きく報道されたことをきっかけに、父の戦友が訪ねてきて、その際、古い写真(上、修了証書と一緒に写っているもの)を渡してくれ、このときはじめて父の顔を知ったという。



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大石忠義/パジヨロ・カピ(排灣族)
阮曽慶雄

大正10年(1921年)生 屏東県春日郷 農業
第4回高砂義勇隊 軍属 ニューギニア
「このズボンはニューギニアから帰って来た時の軍袴です。斬り
込み隊でした。お国のために、部隊長が下がれと言っても下がら
ないで先へ進む。だから勇敢なる高砂義勇隊と言われたですよ」

出征した昭和18年(1943年)はおもしろいことがあったけれど、19年(1944年)になると戦争が激しくなって、1日中防空壕のなかにいた。飯も食わず水も飲まず、苦しいよ。ジャングルのなかを果物探して食べた、サゴヤシにココヤシ、虫も、鳥、山豚、動いているものはみんな食べた。


4年間雨のような弾を浴びても帰ってこられたの、天の神さまのおかげ。(戦後に伝道された)キリストはその頃はまだなかった、テンショウさま(天照大神)のおかげ。


アメリカの飛行機がまいた宣伝ビラで敗戦を知った。信じられなかった、わたしどもは負けていない、負けたと思っていない。でも故郷が原子爆弾で負けたから仕方がない。その時転戦部隊は暴れたよ、故郷は何をしているかとね。


若い人たちに会うと「日本人来たよ」と言うね。わたし、日本人。「日本精神」は嘘つかない。冗談は冗談、本当は本当、しっかりしているよ。


わたしの名前は大きい石。大石良雄内蔵助は吉良上野介と戦って吉良が負けたでしょう。やっぱり大きい石に弾が入らなかったですよ。


昭和18年には給料が出たが、19年からは一銭ももらってない。中村小隊長に貯金通帳預けて、小隊長が死んだからわからなくなった。わたしどものことはどうなりますか、と聞きたい。弾を浴びて帰ってきた苦しさを何とかしてくれませんか。(日本語発)

奥さんと畑で。奥さんの最初の夫は第5回高砂義勇隊で戦死。
戦後ふたりは結婚したが「生活、いまも苦しい」という。

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今川輝三郎/余 耀輝
大正6年(1917年)生 嘉義市 農業
海軍第16警備隊 海南島 空襲の爆弾により右足大腿部切断

「40年、修繕に修繕を重ねた義足です。あせもで錆びたりして、
はずすと2度くらい(体温が)違います。しびれてしまうので、
朝つけたら夜まではずしません。菊の紋章入りの義足ももらいま
したが、ビスがだめになると使えなくなるのでとってあります」

志願でも召集でも同じことです、行かなくてはならない。現地で1ヵ月訓練を受けて、治安工作に当たりました。終戦時は目黒の海軍病院にいました、義足をもらうために。


昭和21年(1946年)3月に家に帰ったとき、家内にこう言いました。「こんな体でしょうがないから、3人の子どもはわたしが引き取る。あなたはどこへ行っても良い、自由に任せる」。そのとき子どもは7歳、4歳、2歳でした。


それから、夫婦で昼夜なく一生懸命に働きました。着物を着ると破けてしまうから、褌一枚で夜明けから働いて、節約して安い土地を買い少しずつ広げ、1町歩の土地を3町歩にまで増やしました。


戦後も3人の子どもができ、家庭に対する責任は重かったです。「一旦緩急あれば義勇公に報じ……」(教育勅語) この精神・大和魂で子どもたちを育てました。人に対していばってはいけない、と。 



中国石油で技師をしている次男がこの家を買ってくれて、隠居生活を楽しんでいます。でも、あと10年生きられるかどうか。日本のために働いてきたのだから、年金を出してくれるのが本当ですよ。わたしは親としての義務を果たしましたが、日本は戦傷者に対する義務を果たしていません。(日本語発)




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