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マレーシア |
13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来した。
1400年 マラッカ王国成立。
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マラッカ王国の範囲 永積昭『アジアの多島海』世界の歴史13 1977 講談社 p.121 |
1408年 マラッカ王国の独立を当時の明が承認。
1510年 インド亜大陸西側のゴアに拠点を築く。
その翌年の1511に、インド総督アルブケルケ(ポルトガル人)をマラッカに派遣、武力でマラッカを占領した。
これが東南アジアの植民地化の始まりだった。
1511年 ポルトガル、マラッカを占領
1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(鉄砲伝来)
1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
1641年 オランダ、マラッカを占領
1786年 シャム(タイ)の攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国(後の華僑)やインドからの移民増加政策を行った。
1791年5月1日 シャム(タイ)が隣国のパタニ王国 (現在のタイ深南部三県) まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにクダ・スルタン国はイギリスの貿易商・フランシス・ライトに騙されていた事が発覚した。
クダ・スルタン国は10,000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した 。
イギリスによる植民地統治時代
1795年 イギリス、マラッカを獲得。
1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島 (マラッカ海峡) を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結 イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレンとオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。
1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
1874年 イギリス領マラヤ成立
戦争とマラヤ
1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸 (マレー作戦) 大東亜戦争の開戦
1942年 日本軍がマラヤ全域を占領
1945年 日本敗戦
1947年 マラヤ連邦、イギリス領植民地の集合体として結成
1948年 戦後、イギリスに返還されていたクダ州がマラヤ連邦に加入。
1957年 マラヤ連邦完全独立
1965年 シンガポールがマレーシアから独立。
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まとめ
約450年近く、マレーシアは植民地にされて来ました。
そして、日本軍のマレー作戦でイギリスを破った事がきっかけで1957年、完全独立できました。
とする評価をよく目にします。が浅学無知な私は心の中では、もう一つピンと来ませんでしたので情報を集めてみました。
果たして、マレーシアの人達から見て本当にそう思ってくれているのでしょうか?
マレーシア元首相 マハティール
「もし日本なかりせば、世界は全く違っていたでしょう。
富める北側(ヨーロッパ)はますます富み、
貧しい南側(東南アジア)はますます貧しくなっていたと
言っても過言ではない。
北側のヨーロッパは、英園に世界を支配しただろう。
マレーシアのような国は、ゴムを育てて、スズを掘り、
それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けたでしょう」
ガザリー・シャフェー元外相
「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。
マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。
(日本のある政治家が日本の過去を謝罪した後の言葉)
ラジャ・ダト・ノンチャク(マレーシア上院議員)
敗れて逃げていくイギリス軍を見た時に
今までに感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、
将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、
それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育を行ってくれたのです」
ラジャ・ダト・ノンチャク氏 (マレーシア上院議員)