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イギリスとフランスの植民地 |
19世紀以降のタイ(ラタナコーシン朝シャム)は、イギリス・フランスの侵略を受けながらも独立を維持しました。
1896年英仏宣言でチャオプラヤ川流域を両国の緩衝地域とし、さらに1904年の英仏協商でチャオプラヤ川の西部と西南部はイギリス、東部と東南部はフランスの勢力圏と承認し合いました。
このようにタイが干渉地域とされたことによって英仏の直接侵攻はこれ以上進むことはありませんでした。結果的に独立を維持できたのです。
・・・現在2017年の<北朝鮮>も同じことが言えます。(中国、ロシア)と(韓国、日本、アメリカ)の緩衝地域が北朝鮮です。・・・
ですから性急に事を運ばず、北朝鮮国を抹消しない方が、将来的に良いのかも知れません。ただトランプ大統領が頓珍漢な行動をしなければよいのですが・・・
横道へ反れてしまいました。
さて、1932年タイの体制は、立憲革命から立憲君主政の形態をとっています。また国号を1939年にシャムからタイに国名を変更しました。
イギルス領マラヤやビルマを開放するに当たって、日本はタイを通過しなければなりませんでした。タイとしては仏泰戦争でヴィシー政権下のフランスと争っていた際、日本の介入によって解決したり、同じアジアの独立国同士ということもあって日本には協力的でした。
しかし、1941年12月8日、大東亜戦争開戦と同時にタイ南部に進駐したため一部の部隊から反発がありました。
日本軍はタイ南部のチュンポンなどに上陸、現地の軍と警察が交戦しました。
このとき、少年義勇兵が動員されたのですがピブン首相は直ちに停戦を命じ、軍政を行わずタイの独立と主権を尊重する替わりに日本軍の通過を認めました。続いて「日本・タイ同盟条約」を締結して同盟国となったのです。
こうして、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結したタイは日本の同盟国となり1942年1月25日アメリカ合衆国、イギリスに宣戦布告を行いました。
日本はタイ王国の独立国としての体面を尊重し、部隊の駐屯は最小限とし、治安維持、後方支援、タイ王国軍との共同作戦を遂行していきました。
開戦当初はマレー作戦遂行とビルマに対する侵攻作戦準備のための後方拠点とされ、戦争末期、敗戦色が濃厚になると、インドシナ半島の作戦拠点として整備が進められていった。しかし、結果的にタイ国内で大規模戦闘となることはなく、終戦を迎えることになりました。
タイは太平洋戦争では、ピブン政権が日本と同盟関係を結び、英米に宣戦布告をした国でありましたが、そのときのピブン政権に対して反日路線を主張したグループ(自由タイ)がアメリカに協力した(日本軍の情報提供)ことから、枢軸国としての責任をとらされることなく、戦後はアメリカの支援で経済復興を進めることができました。
ピブン政権の日本よりの政策は当初国内において支持を得ていました。タイ軍は、1826年ヤンダボ条約でイギリスが植民地支配権を確定したシャン州(ビルマ国境)の回復を目標として、日本のビルマ侵攻戦をともに戦ったのでした。(泰緬鉄道敷設通過の許可や他マラヤ上陸の支援)
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第二次大戦当時の東南アジアと泰緬鉄道 |
タイは、1893年仏泰戦争で失ったラオスや、1909年英泰条約で失ったマレーの領域(クランタン州、ケダ州、トレンガヌ州、プルリス州)等を回復しました。