山田長政は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)のアユタヤ日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で通称は仁左衛門と言いました。
武道に長けており、アユタヤー王朝のソンタム国王からの信任が篤かったとされます。
日本人町は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されていました。
日本の戦国時代には、主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになりました。
この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い(1600年)、大坂の役(1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣から成る。)などの後になります。
当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生み出したのです。
日本の内乱で主君を失った浪人が、職を求めて海外に渡ったのです。
長政はソンタム王の遺言に従い、政治にまで参画しましたが左遷に会い、1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて暗殺されました。
さらに長政の死と同じ年に、「日本人は反乱の可能性がある」として、アユタヤ日本人町は焼き打ちされました。
しかしその後、1632年には焼き討ちにより海外に逃れていた日本人400人程度が再び集まり、日本人町が再興されました。
軍事的・政治的な地位を失ったものの日本人は以前の貿易により培われた集積力を生かし、仲買商として働いたり、タイ南部で盛んに産出されたスズの取引などを行うようになりました。
その後、18世紀初頭まで日本人町は存続したと考えられていますが、徐々にタイ族に同化し自然消滅したと言われています。
現在は記念公園となっており、日本人町の跡の碑などが建っています。日本の旅行会社が、この公園をパッケージツアーのコースに採用するため日本人の案内人も常駐しており、資料館には僅かながら江戸時代に日本から送られた親書などが展示されているようです。