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ブルネイ:お金持ちの国 |
三重県ほどの小っちゃなブルネイ
「 ブルネイの歴史」
1888年:イギリスの植民地となる
1941年:太平洋戦争の勃発に伴う日本軍の侵攻により 1945年まで日本の統治下となる
1984年:イギリスより独立する
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ボルネオ島に、ポツンとある南洋の独立王国 |
発展に尽くした日本人とは
元ブルネイ県知事・木村強
日本は1941年から東南アジアのアメリカ・イギリス・オランダが植民地とする島々から追放するため、イギリスが支配していたブルネイに侵攻。 兵力が少なかったイギリスはすぐに撤退し、日本軍が統治を行うことになります。
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木村はブルネイに到着後、まず始めに当時の国王アハマドと面会。 「日本国ブルネイ県」となった後も、日本は国王の地位は変えず、その権威はそのまま守られていた。 そして木村は国王に対して、敬意を持って接することを忘れませんでした。
木村は国王にブルネイに詳しい人物を1人付けてもらえるようにお願いしました。
木村にとってブルネイは、まだ未知の国。 そのため、さまざまな知識があるブルネイ人の秘書が必要でした。 国王は木村の要求に応えるため、一人のブルネイ青年を呼び出しました。 オマル・アリ・サイフディン(後の国王)。 まだ26歳の青年でした...
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元秘書のオマル・アリ・サイフディン3世 国王 |
当時のブルネイの村は、まだほとんどがジャングルに覆われ、道路も通っていない状況でした。 ブルネイの国土の大半を占める熱帯雨林には、ゴムの木が豊かに自生していたものの、現地の人々が細々と採取しているだけでした。
天然ゴムが豊かである事に注目した木村は、軍の資金でゴムを製造する工場を設立し、多くのブルネイ人を正当な賃金で雇用しました。
無論、木村の中にも石油の確保という、日本政府の狙いを遂行する意識はありました。 しかしそれ以外にも、天然ゴムが豊かであることに注目した木村は、ゴム工場で得た収益を日本軍の利益とせず、水道、通信などのインフラ整備を次々に進めていきました。 軍の為ではなく、現地住民の生活を向上させるために。
とはいえ、工場設立の費用などは軍の資金。 石油以外に資金を使うことは日本政府の意向に反するとして、左遷や投獄の可能性もあります。 それでも木村は信念を曲げませんでした。
さらに…木村は大きな畑を作ることを指導しました。 自給自足の生活に慣れ、『自分と家族が食べていければ、それでいい』と考えていた人々に… お互いに協力し、大規模な農場で大量生産を行うことで、みんなで豊かになろう、そう呼びかけました。
さらに木村は、驚くべき行動に出ました。 木村はオマルにイバン族の居住区に連れて行ってくれるように頼みました。 ブルネイは、王家を含むマレー系の他に、様々な部族が暮らす多民族国家なのですが… 中でも、マレー人たちに最も敬遠されている部族がありました。 それがイバン族。
イバン族には、昔から“首狩り”の風習があり、マレー人と殺し合いをしてきた歴史のある野蛮な部族として知られていました。 それでも、木村はブルネイをさらに発展させるには、国内で争っていてはいけないと考えイバン族の協力も仰ぎたいと考えていたのです。
そのため、何度訪れてもすぐに追い出されました。 しかし、それでも…木村とオマルは、イバン族の元へ通い続けました。
その一方で、木村は国王に掛け合い、ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴えました。 そして、イバン族の村でも自らインフラ整備を始めました。
そんなある日のこと。 イバン族のみんなが、自分たちにも作業を手伝わせて欲しいと申し出てきたのです! 木村の想いは、いつの間にかイバン族にも伝わっていました。 あれほど、日本人を嫌っていたイバン族が木村に信頼を寄せるようになっていきました!
こうしてイバン族とも絆を育んでいった木村。 さらに…木村が言うならと、イバン族とブルネイ王家が歩み寄ったため、マレー人と他の部族との関係も改善。 小さな国土で多民族がいがみあっていたブルネイは、一つにまとまっていきました。
滞在期間わずか1年足らず。 しかしブルネイにとっては、それ以前の生活が一変し、国の基礎が出来上がった奇跡の1年となったのです!
別れの日、木村は唯一残した手記に、こう綴りました。
『ブルネイには僅か一年位しかいなかったが、現地人の幹部が男泣きに泣いているのを見て、私も泣いた。
そしていよいよ出発の日に、約1時間半ほど、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。
私は過去1年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった』
そしていよいよ出発の日に、約1時間半ほど、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。
私は過去1年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった』
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さらにお話は続きます。続きは以下の動画で御覧になる方が楽と思います。どうぞよろしくお願いします。
★★★「ブルネイ王に招かれて」★★
今も尊敬されている日本人:木村木村強さんの着任から帰国、さらに22年後、ブルネイに招かれた時の様子や気持ちを書いた記事がありますので紹介します。
私は、戦争に負けることは聊(いささ)かも想像したことはないが、仮に万が一期待に反するような結果になっても、日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、
品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたいという信念で、異民族の統治に当たったのであった。
私は、戦争に負けることは聊(いささ)かも想像したことはないが、仮に万が一期待に反するような結果になっても、日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、
品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたいという信念で、異民族の統治に当たったのであった。
あれから70年が過ぎました。 今現在、ブルネイの人々は日本の事をどう見ているのだろう?「日本人は素晴らしい。一生懸命で多くの事を学ぶ事ができるよ」「日本は発展していてとても好きです」
木村が、今なおブルネイで尊敬される理由。 それは、彼が日本人の心である“和”の精神を伝えたから。(動画内で現地の人が言っています。) 日本とブルネイの海を越えた友情は、今後も受け継がれていくでしょう…末永く。